複数政党制への移行と民主党政権の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 02:53 UTC 版)
「トルコの政党」の記事における「複数政党制への移行と民主党政権の成立」の解説
1938年にケマル・アタテュルクが死去し、イスメト・イノニュが第2代大統領に就任したが、イノニュは国家資本主義的政策を志向し、共和人民党の終身党首として、一党独裁制を維持し続けた。 しかし、第二次世界大戦中に中立を維持するための準戦時体制が続き、国民の不満が蓄積していくと、イノニュ政権は、国民の不満の爆発を恐れ、1945年に複数政党制の導入を決定した。 1946年1月7日には、共和人民党非主流派議員で、党執行部から除名処分を受けたアドナン・メンデレス、フアト・キョプリュリュらを中心に、民主党(Demokrat Partisi)が結成された。 民主党は、アタテュルクの下で首相を務めたジェラル・バヤルを党首として、同年の総選挙に参加し、450議席中62議席を獲得。さらに、1950年の総選挙では、農村の保守的な有権者の支持を集めて、共和人民党を破って、単独過半数を獲得し、メンデレスを首相とする民主党政権が発足した。 民主党は、1950年代の3回の総選挙で一貫して単独過半数の議席を獲得し、政権を掌握した。しかし、首相のメンデレスが独裁的な傾向を見せる一方で、経済政策に対する失敗について、党内外から批判を受けるようになり、1960年5月27日に軍部のクーデターにより、民主党政権は崩壊した(5月27日クーデター)。
※この「複数政党制への移行と民主党政権の成立」の解説は、「トルコの政党」の解説の一部です。
「複数政党制への移行と民主党政権の成立」を含む「トルコの政党」の記事については、「トルコの政党」の概要を参照ください。
- 複数政党制への移行と民主党政権の成立のページへのリンク