製糸業
製糸業
製糸業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/24 07:22 UTC 版)
「チェシャーの絹関連産業」の記事における「製糸業」の解説
チャールズ・ロウは、1743年にボタン工場(the Button Mill(固有名詞))を建てた。そこには2台のイタリア式フィラトイオ( filatoio ダービーで用いられていたタイプの水力式撚糸機)を設置し、染色も行った。工場は拡張され、1761年までには350人を雇用するまでになった。デントリーとライル(Daintry and Ryle)により1775年にパーク・グリーンに設立されたフロスト・ミル(Frost's Mill on Park Green)など、他の工場がチャールズ・ロウの製糸工場の後に続いた。ジョン・ハドフィールド(John Hadfield)はボリン(Bollin)に工場を持ち、第一チェスター・ロード・ミル(the first Chester Road Mill)が建てられたのもこの頃である。 マクルズフィールドは繁栄した。農夫が週に6シリング稼ぐところ、撚糸業に従事する男性は週に7シリング稼いだ。女性なら3シリング6ペンス(訳注:12ペンス=1シリング)で、子どもは3年契約で初年度、週に6ペンスから始める。翌年に9ペンスに上がり、3年目でまるまる1シリングを受け取れるようになる。これは、1日に12時間労働、週休1日という条件のものであった。イギリスがフランスと戦争状態にある間は需要が増加し、平和になると不況が何年も続いた。チャールズ・ロウは1760年に1万ポンドで事業を売却して、撚糸業から足を洗った。七年戦争が1763年に終戦すると非常に困難なことになった。この時点でマクルズフィールドでは、絹織物を作っておらず、織糸をスピタルフィールズに供給するだけであった。スピタルフィールズは当時社会不安の状態にあって、パーク・グリーン公園や市場で起きていた小さなデモの参加者により支持された大規模なデモが起こっていた。労働者たちは組合を組織した。スピタルフィールズにおける賃率と徒弟奉公人の数及び徒弟奉公期間は、1773年の議会法により規制された。
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