ぎょう‐こう〔ギヤウカウ〕【行幸】
み‐ゆき【行=幸/▽御▽幸】
行幸
行幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:42 UTC 版)
寛永元年(1624年):徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、天守も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築した。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した。 寛永3年(1626年):行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。 寛永11年(1634年)7月:秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。 その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。 寛永2年(1625年):二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。 元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。 文久2年(1862年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。
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行幸
「行幸」の例文・使い方・用例・文例
- 大学へ行幸あらせらる
- 日光へ行幸おおせ出さる
- 病院長の御前行にて各病室へ行幸あらせらる
- 博覧会行幸仰せ出さる
- 陛下には午前九時御出門平和博へ行幸あらせらる
- 行幸
- (天皇が)行幸先からもどる
- 行幸中の天子
- 以前に天皇が行幸になった所
- ひそかに行幸する
- 行幸先で天皇,皇后が休息するために臨時に設けられた場所
- 天子が,行幸の途中で車を止めること
- 天子が,行幸先に滞在すること
- 宮中で行幸や行啓の供をした役
- 雑仕という,宮中で行幸や行啓の供をした役の人
- 天皇行幸の際の仮の御所
- 彼は,陸路より費用がかからないので行幸は海路で行われるべきだと主張している。
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