蒲生宗家との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:10 UTC 版)
高郷は宗家の秀紀に自分の娘を嫁がせるなどして表向きはしばらく友好を保っていたが、大永2年(1522年)7月に六角定頼の支援を受けて挙兵。秀紀の籠る音羽城を包囲・攻撃した。 音羽城の固い守りに高郷軍も攻めあぐね長期の籠城戦となるが、六角氏の支援を受ける高郷に対して秀紀側には後詰めは無く、次第に高郷側が秀紀を追い込んでいき、およそ8カ月におよぶ戦いの末に大永3年3月8日(1523年4月23日)、秀紀はついに降伏・開城した。 この戦いは六角定頼の仲裁で和議が成ったが、定頼の後援を得る高郷側には非常に有利な条件が与えられ、蒲生氏の家督は秀紀から高郷の子の定秀に移譲され、対する秀紀は城を退去させられ音羽城は廃城処分となった。
※この「蒲生宗家との対立」の解説は、「蒲生高郷」の解説の一部です。
「蒲生宗家との対立」を含む「蒲生高郷」の記事については、「蒲生高郷」の概要を参照ください。
- 蒲生宗家との対立のページへのリンク