芝居小屋時代
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伊那旭座の前身は明治時代に開業した芝居小屋である。現在の運営元でもあるタバタ映画有限会社初代社長の田畑耕が旭座を開館させた。芝居小屋時代は畳敷きであり、2階席は「コ」の字型に席が配置されていた。400席以上を有して伊那最大のホールだったことから、実演や歌謡ショーなども行っていた。 1913年(大正2年)には上伊那郡伊那町(現・伊那市荒井区錦町)に現在の建物が完成。大正時代から昭和初期には演劇が主体ながら実演や歌謡ショーなども行い、さらに年5-6本の映画を上映していた。1924年(大正13年)頃には火災で建物が焼失した。 1940年には伊那町民が驚くほど高い2000円という賃貸料で契約したが、松竹の『新女性問答』(佐々木康監督、桑野通子主演)を1日3公演したところ3日間で2000円以上を稼ぎ出したり、女相撲に1回2000人の観客が集まって入場制限をかけるなど、興行的に大きな成功を収めた。
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芝居小屋時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 10:21 UTC 版)
刈谷町と知多郡東浦村緒川を結ぶ街道の平坦化を図るため、大正時代にはこの場所の地盤を削り、1918年(大正7年)には伊藤鋭太郎が跡地の広場に芝居小屋として大黒座を創立した。建物内部の仕上げは名古屋・伏見の御園座を模しており、格子状の天井、回り舞台、大小2つの花道、桟敷席を有する豪華な劇場だった。 六代目 尾上菊五郎や七代目 松本幸四郎などが来館して歌舞伎の興行を行い、また大規模なホールを活かして政談演説会なども行われた。この時代には少なくとも1950年代後半まで、庭園を有する料理屋の大喜館(後の電装会館、今日のふれあいプラザゆうきそうの場所)があった。
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