自衛隊突入決行と自決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
詳細は「三島事件」を参照 1970年(昭和45年)11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如、益田兼利総監を人質にして籠城すると、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。45歳没。現場はあまりにも凄惨であったため、当局の発表も、報道にも自然に抑制がかかり、現場の様子がリアルに表に出るのは、14年後写真雑誌『フライデー』が、警視庁公安部の右翼担当部員が保管していた現場写真(三島の生首の顔)をスクープというかたちで掲載した時であった。警視庁公安部員は、切腹から斬首に至るまでの一部始終を、止めに入ったり逮捕したりすることなく、廊下側の天窓ごしに全部ウォッチしながら、証拠写真を相当数撮り続けていた(立花隆によると、公安部員は右翼担当・左翼担当関わらず、どんな重大な事件に遭遇しても、それに直接介入はしないという)。 決起当日の朝10時30分、担当編集者の小島喜久江は平岡家のお手伝いさんから間接的に第四巻「天人五衰」の原稿を渡された。小島が編集部に戻って原稿を読むと、予定と違って最終回となっており、巻末日付が11月25日で署名がなされていた。 この11月25日という決行日については、大正天皇の重患に伴い昭和天皇が摂政に就いた日であることと、天皇が「人間宣言」をしたのが45歳だったことから、同じ年齢で人間となった天皇の身代りになって死ぬことで、「神」を復活させようという意味があったと考察する研究や、三島が尊敬していた吉田松陰の刑死の日を新暦に置き換えた日に相当するという見解もある。 また、11月25日は三島が戦後を生きるために〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉という〈生の回復術〉〈裏返しの自殺〉 として発表した『仮面の告白』の起筆日であることから、三島が戦後の創作活動のすべてを解体して〈死の領域〉に戻る意味があったとする考察もある。 この日、細川護立の葬儀で東京に居た川端康成は、三島自決の一報を受けて現場にすぐ駆けつけたが、遺体とは対面できなかった。呆然と憔悴しきった面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「もったいない死に方をしたものです」と答えた。三島の家族らは動転し、瑤子夫人はショックで寝込んでしまった。 三島の辞世の句は、 益荒男(ますらを)が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜 散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐(さよあらし) の二首。 三島の遺体は翌日の26日に慶応義塾大学病院法医学解剖室にて、斎藤銀次郎教授により解剖執刀され、死因は「頸部割創による離断」と認定された。また、三島の血液型はA型で、身長は163cmであった。 自宅書斎からは家族や知人宛ての遺書のほか、机上に「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞 昭和45年7月7日号)と「世なおし70年代の百人三島由紀夫」(朝日新聞 昭和45年9月22日号)の切り抜きがあり、〈限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫〉という遺書風のメモも見つかった。 介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は刃こぼれをしていた。刀は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせ、それに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれていたうえ、容易に抜けないよう両側が潰されていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島由紀夫展」(11月12日から17日まで東武百貨店で開催)で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。 武田泰淳は、三島と自身とは文体も政治思想も違うが、その「純粋性」を常に確信していたとし、以下のような追悼文を贈った。 息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが「不道徳教育講座」を発表したとき、私は「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。あなたを恍惚とさせようとする「美」を押しのけるようにして、「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。 — 武田泰淳「三島由紀夫氏の死ののちに」 翌日の11月26日、三島が伊沢甲子麿に託した遺言により、遺体には楯の会の制服が着せられ、手には胸のあたりで軍刀が握りしめられた。どんなに変わり果てた無惨な姿かと父・梓は心配だったが、胴と首も縫合され、警察官たちの厚意によって顔も綺麗に化粧が施されていた。密葬は自宅で行われ、家族は柩に原稿用紙や愛用の万年筆も添え、品川区の桐ヶ谷斎場で三島は荼毘に付された。なお、三島は律儀に国民年金に加入していて死ぬまで保険料をきちんと払っていたという。 翌1971年(昭和46年)1月14日、三島の誕生日であるこの日、府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための中有の期間を定めていたのではないかという説もある。 同年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長・川端康成、弔辞・舟橋聖一ほか)が行われた。8200人以上の一般会葬者が参列に訪れ、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった。戒名は「彰武院文鑑公威居士」。遺言状には「必ず武の字を入れてもらいたい。文の字は不要。」とあったが、梓は文人として生きてきた息子の業績を考えて「文」の字も入れた。 告別式には、右翼の仲間と思われることへの懸念から参列を回避した知人らも多く、ドナルド・キーンも友人らに助言されて参列を見合わせたが、キーンはそのことを後悔しているという。 人質となった益田総監は、裁判の公判で「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」と語ったうえ、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と陳述した。 なお、川端政子(川端康成の養女)の夫・川端香男里によると、三島が康成に宛てた手紙の最後のものは、11月4日から6日の間に自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地から出された鉛筆書きのもので、康成によって焼却されたとされる。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」とされる。しかし、これは康成の名誉にならないから焼却されたのではないかという見方もある。 三島と森田の忌日には、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「憂国忌」が毎年行われている。三島事件に関わって4年の実刑判決を受けた楯の会3人(小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)が仮出所した翌年の1975年(昭和50年)以降には、元楯の会会員による慰霊祭も神道形式で毎年行われている。 1999年(平成11年)7月3日には、三島の著作や資料を保管する「三島由紀夫文学館」が開館された。2008年(平成20年)3月1日には、富山県富山市向新庄町二丁目4番65号に「隠し文学館 花ざかりの森」が開館された。
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