老境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:07 UTC 版)
三郎を広島に招こうという動きがあったのに対し、1908年(明治41年)秋、熊本の門下有志により喜友会が結成、三郎のために熊本市花畑町に舞台と住居を建て、以後そこが終生の住処となった。 晩年の三郎は、耳はほとんど聞こえず、目も半ば見えなかったが、能のことになると、わずかな間違いも見逃さず、また聞き逃さなかった。また能についての知識は比類なく、自流のことはもちろん、また他流の詞章、さらには囃子方、装束、作り物や小道具のことについても知らぬことがなく、まさに「生きた能楽大辞典」として尊敬を集めた。東京で三名人の称を得た伴馬も、郷里・熊本における名声では三郎に敵わなかったという。 1915年(大正4年)、大正天皇即位式に際して催された能(大典能)で、六平太が「羽衣」を舞うこととなった。これに際し六平太はこれまでの感謝の意味もこめて後見を三郎に依頼し、三郎もこれを承けて上京した。 この東京滞在中には、三郎による「鉢木」の演能も行われた。坂元雪鳥は朝日新聞紙上の能評で、「終始凛々たる気込は実に感心させられた」「ワキを喚止むる所、一散に破つて入る所など何とも言へぬ妙味があつた」「後シテの豪宕さも偉いものである」と賞賛し、またツレを勤めた後藤得三も、「実に素晴しいもので、いまでも瞼に残っている」と語っている。
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