統治システム
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オスマン帝国はイスラームで生まれた王朝ではあったが、イスラーム世界とビザンツ帝国との境界線で生まれ、ビザンツ圏を主に吸収することで発達していった。そのため、オスマン帝国は原初からビザンツ帝国で信仰されていた正教を奉じギリシャ語を母語とする人々を組み込んでいった。彼らを吸収するにあたって、教会を破壊したりモスクに転換したという記述が一部見られるが、ビザンツ帝国の人々をムスリムに改宗させたという記述は見られない。それどころか15世紀以降、残されている検地帳(タフリル・デフテリ)、法令集(カヌーン・ナメ)の条文を見る限りでは彼らを正教徒として組み込んだとされる。これはギリシャを征服する際にも同様であった。また、ブルガリア同様、ビザンツ帝国時代の大貴族は没落したが、下級のギリシャ貴族は存続を許された。ギリシャの小貴族層からは、オスマン帝国の属領・ワラキア公国に赴任したコンスタンティヌス・マヴロコルダトス(en)らが輩出されている。 オスマン帝国では非ムスリム系の住民はミレット制によって統治されており、1453年のコンスタンティノープル攻略後、メフメット2世がギリシャ正教徒に与えた特権が起源とする説が従来の説であった。しかし、15世紀から16世紀にかけての法令集によれば非ムスリムについてはズィンミー、エフリ・ズィンマという言葉がしばしば使われている。これらはイスラーム法とも訳されるシャーリア」の中で確立したズィンミー制度に関わる言葉であり、オスマン帝国におけるギリシャ系正教徒らはシャーリア上のズィンミー制度で扱われていたと見る説もある。 ミレット制度によれば、オスマン帝国における非ムスリム系の人々はギリシャ正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒からなる宗教共同体、いわゆるミレットに所属しており、ジズヤなどの貢納の義務を負った上でミレット・パシュと呼ばれる長を中心に宗教、法律、生活習慣を保ち、自治生活を行っていたとされている。 それに対してズィンミー制による統治は人々を宗教ごとに分け、ムスリムと非ムスリム、非ムスリムはさらに「啓典の民(アフル・アル・キターブ)」と偶像崇拝者に分けられていた。啓典の民とはキリスト教徒、ユダヤ教徒を指しており、彼らはムスリム共同体との契約により人頭税(ジズヤ)を貢納し、一定の行動制限下に入ればズィンミー(非保護民)としてズィンマ(保護)が与えられた。そのため、彼らはシャーリアを犯さない限りは固有の信仰、法律、生活慣習を保つことがゆるされていたとする。そしてこのズィンミー制度は7世紀中頃から8世紀中頃までに行われたアラブの大征服の際に定着したとしている。 これについて鈴木薫はオスマン帝国の形成期における非イスラム教徒らの扱いはシャーリア上のズィンミー制度によって扱われたとしており、これはムスリムをあくまでも上位とした不平等な扱いの元の共存としている。そしてこのオスマン帝国の支配は「トルコの圧政」ではなく、「オスマンの平和(パックス・オトマニカ)」としての一面を備えていたとする。
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統治システム
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ドイツが東アフリカに進出した際、多くの地域ではそれまでザンジバルのスルターンが用いていた統治組織を受け継いだ。これは、各村にジュンベ(村長)を置き、幾つかの村を治めるアキダ(郡長)と呼ばれる中間統治者を、政府が任命する方式だった。当初、アキダには読み書きの出来る主にアラブ人やスワヒリ人が選ばれたものの、後に教育を受けたその他のアフリカ人も採用された。ただし、内陸部の大規模部族に対しては、部族の首長を中間統治者として正式に、あるいは暗黙のうちに承認した。 これら中間統治者は道路や橋などの土木工事への労働賦役、政府のキャラバン隊の荷役、ドイツ人の経営する農園への労働者などの供給、あるいは家屋税の徴税などを行った。首長あるいは村長は徴収した税金の5%を報酬として受け取った。納税は金納が原則であったため、換金作物の栽培が始まっていない地域では賦役(強制労働)で代用する制度も用意されたが、これは住民には不評だった。賦役に応じない住民に対してはアキダや首長により家屋が焼き払われたり家畜が没収されたりした。1905年にこの無報酬の労働賦役から賃金労働の制度に改められ、賃金の中から納税するようになり、また人頭税が導入され、家屋税から徐々に切り替えられていった。家屋税と人頭税を合わせた税収は1909年には311万マルクに達し、植民地での税収の34%を占めた。 内陸のハヤ族の住むブコバ地域、ルアンダ王国、およびブルンジ王国の3地域は人口が集中し中央集権的制度を持つ大規模な部族が支配する地域であったため、植民地政府は間接統治方式をとり3地域を自治区とし、王あるいは首長は内政に関する権限を与えられた。各自治区にはドイツ人駐在官が置かれ経済開発のアドバイザーとなるとともに、外国人や現地住民の出入国を監視した。これら自治区では経済開発が遅れ、徴税が実施されたのは1910年代に入ってからだった。
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