経営悪化と終焉
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初就航の直後、1949年に慎鏞頊は、大韓民国制憲議会内に設立された反民族行為特別調査委員会により、日本軍との密接な関係や朝鮮航空工業での軍用機製造などの「親日行為」を疑われ逮捕されている。しかし、これらは「日本軍による強要により行わざるを得なかったもの」とされて不起訴処分となった。朝鮮戦争が勃発すると、大韓国民航空は機材を政府に徴発され運行できなくなった。だが、戦中に再度航空機を導入して運行を再開し、国内線だけでなく国際線にも進出した。慎鏞頊は事業の傍ら、大韓民国の第2代国会(1950年)と第3代国会(1954年)で国会議員を務めている。 KNAは台北経由香港線で国際線に進出したほか海外へのチャーター便運航も行った。さらノースウェスト航空が独占していた日本及びアメリカ合衆国への路線開設を目指したが、李承晩政権時の日本との関係悪化により日本路線は開設できず、韓米航空協定でアメリカ乗り入れが認められたものの機材調達に難航した。独立直後で資金がなく道路や鉄道が朝鮮戦争で破壊された韓国政府には航空産業育成の余裕がなく、フラッグキャリアを育成する政策や、航空会社の経営を支援する財政・税制上の政策にも欠けており、敗戦で航空会社を解散させられた日本や国共内戦でフラッグキャリアを喪失した台湾と違い韓国にはせっかく民間航空会社が残ったにもかかわらず生き残らせることができなかった。 KNAは需要の減少や通貨ウォンの暴落、更には滄浪号ハイジャック事件による機体の喪失によって経営難となった。この経営難によりアメリカへの定期路線は結局開設されることはなく、ハイジャック事件の影響で慎鏞頊は第4代国会(1958年)での選挙にも敗北し国会議員の地位を失った。 1960年には大統領選挙での不正をきっかけに四月革命が起こり李承晩政権が倒れたが、慎鏞頊は韓国銀行から融資された航空機調達資金を全額購入費に使わず、差額を不正蓄財したとして捜査を受けた。さらに、新政権は新規航空会社による参入を認めるようになり、後に大韓航空を経営することになる韓進グループを創業した趙重勲が「韓国航空」(Air Korea)を創業して1961年春から定期便に参入したことで過当競争が起こったことも経営に打撃となった。 1961年5月16日に5・16軍事クーデターが起こり、朴正煕少将が権力を握る国家再建最高会議(軍事政権)が誕生すると、腐敗一掃を掲げる軍事政権により慎鏞頊は不正蓄財により逮捕された。さらに、共倒れ状態にあったKNAと韓国航空の統合が軍事政権により進められることになり、創業者慎鏞頊は抵抗したが、経営難を苦に1961年8月末に漢江へ投身自殺した。 KNAは韓国航空の統合にあたり自社の負債の全額清算や全社員の雇用維持を要求したが軍事政権はこれを認めず、1962年には軍事政権はKNAを無視して国策会社の大韓航空公社(KAL)を設立し、外国路線への参入を政策的に支援してフラッグキャリアの育成をようやく開始した。一方KNAは税金も払えなくなり機材を国に差し押さえられ、1962年11月末をもって事業免許を取り消され、12月から大韓航空公社(KAL)が国内線への就航を開始した。 現在の大韓航空は1969年に、政府が大韓航空公社を韓進グループに売却して民営化したものであり、厳密にはKNAや韓国航空とは一切無関係な会社である。
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