経営悪化から解散まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 02:08 UTC 版)
「日本航空機製造」の記事における「経営悪化から解散まで」の解説
日航製造は最大株主が日本政府であり、通産省主導の国策半官企業の特殊法人であったため、職員に公務員気質がはびこり始め、首脳も官庁から派遣されてきた人材(いわば天下り)が増加し、企業経営はうまくいかなかった。 YS-11の販売も、次第に営業方法の悪さが顕わになり、販売網は全く構築できなかった。特に海外においては、歴史も実績も無い初の日本製旅客機であることから信頼性の問題から有力航空会社で相手にされなかったことや、金融の面でも競合機各社が長期繰り延べ低金利払を行っていたことで対抗せざるを得なくなったこと、原価に営業費用を計上していなかったことで製造原価を割った価格で販売を続けたことで、慢性的な赤字状態となっていた。原価に、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったことは、国産輸送機の設計・製造のための予算獲得が第一義であったことで、利益を度外視した原価管理であったからである。量産効果によって期待される価格の低減も、製造部門を持たない日航製造ではコスト管理もままならず、生産を請け負った機体メーカ各社もインフレーションによる人件費高騰や部品価格高騰により製造コストが上昇し、納入価格の引き下げには応じられなかった。しかし、競合機との対抗上、値段を下げなければ売れないという悪循環が生まれていた。 経営の悪化する日航製造はこのような構成各社からの費用請求も重荷となり、赤字が累積する中で、原価を割った価格で販売を続けた。そのため、売れば売るほど赤字が増加する構造となっていた。大蔵省は、経営を回復しない限り追加出資の予算は出せないとして、継続出資を訴える通産省と全面対決となっていた。 国会でもこの赤字が論議されることになった。これは海外での営業活動の赤字が当時予期せぬ変動相場制の移行で為替差損が発生した以外にも、米国での営業活動に日航製造の問題が起因していることを会計検査院で指摘されたことが原因である。米国国内の販売代理店を希望したノースカロライナ州に本社がある中古機、部品販売を行うシャーロット・エアクラフト社と北米・中南米・スペイン地区の独占代理店契約を結んだが、同社は実質的な営業活動を行わず、三井物産と日航製造の営業活動でピードモント航空に売却契約が締結されると、シャーロット・エアクラフト社は地区独占代理店契約を盾に多額の手数料を要求したり、クロイゼル航空やピードモント航空からYS-11の販売で下取りした33機の中古機をシャーロット・エアクラフト社に渡すなど、会計検査院から不当な取引と指摘された。このことは国会でも問題になり、日航製造の専務が引責辞任する事態となった。航空機販売の実績もなかったことで、シャーロット・エアクラフト社に対して業務の内容や、販売しなかった場合のペナルティの取り決めなどもない杜撰な契約だったためである。地区独占代理店契約解除に2億3000万円の支出や下取り機を渡さなければならない失態を演じた。他にも、航空会社の経営者からリベートを要求されたり、支払いの延べ払いには大蔵省や通産省の了解が必要となり、了解が得られなかったことで契約に至らなかった例が少なからずあったと言われる。加えて、プロダクト・サポートも十分でなく、インドネシアのブラーク航空との間では補給部品の供給が出来ず、欠航が相次いだことから航空会社としての信用を失墜させてしまい、リース料の支払いを拒否され訴訟になるなど、日航製造の特殊法人としての甘さが指摘されていた。また、輸出先の航空会社は遠隔地が多く、それらの航空会社からしばしば日航製造の負担で部品の預託や部品の販売センターの設置が要求されていた。 日本航空機製造の経営赤字は1966年(昭和41年)の航空機工業審議会の答申で既に提言されていた。1970年(昭和45年)3月末で80億円の赤字、1971年(昭和46年)3月末で145億円の赤字となっていた。このため航空機工業審議会では銀行代表団による経営改善専門委員会が設けられ、赤字の要因と今後の対策が検討された。 経営改善専門委員会は1971年(昭和46年)4月27日に、同じ航空機工業審議会の政策委員会に改善策の最終案を報告した。その内容は、 YS-11はその段階で認可されていた180機で製造を打ち切り 1972年度(昭和47年度)末の時点で一切の累積赤字を解消する 1973年度(昭和48年度)以降の日本航空機製造はYS-11に関しては売却した機体の売掛金回収と、補修部品の供給などに専念する とされた。 この報告を基に政策委員会は同年7月31日に次世代旅客機「YX」計画の進め方とYS-11の処理方針の答申案を決定し、9月27日に通産大臣に答申した。赤字の見通しについては量産180機とその後の10年間のアフターサービスで360億円の赤字が発生すると計算された。赤字の内容は、①売上の減少(早期の生産打ち切りの公表による買い叩きと競合機との価格競争で販売価格の値引きによるもの)で31億円、②補用品の売上が予想を下回ったことで40億円、③販売費の増加で31億円、④金利負担増により94億円、⑤為替差損で153億円、⑥原価上昇で11億円とされた。これは一機当たりの機体価格3億5000万円では2億円の赤字を計上する計算となった。その上で答申は、赤字360億円については、日航製造の資本金78億円の取り崩し、政府負担金245億7700万円、航空機製造各社の負担金36億2300万円で処理することとした。赤字の負担をめぐっては、政府の全額負担か、メーカー側にも応分の負担を求めるかで議論があったが、最終的にはメーカーも負担する形になった。 日航製造は問題打開の為、YS-11以降の旅客機計画として、エンジンをファンジェットに転換したYS-11J、四発エンジンの短距離離着陸型YS-11S、一回り大きなYS-33、大型機YXを構想していたが、これらが日航製造によって実現することはなかった。 特殊法人ゆえの杜撰な経営と、次期開発機が組織の経営能力を超えたジェット旅客機を想定した技術偏重の体質など、民間旅客機メーカーの体を成していなかったことで、日本航空機製造の赤字体質脱却は不可能とみられても仕方がなかった。他に、国内航空機メーカー各社が航空機設計の基礎技術を確立・蓄積したことで、日本航空機製造の設立当初の目的を達したとの判断もあった。安全性、快適性、経済性を求める民間旅客機とコストや快適性を無視して限界性能や耐久性を重視する軍用機では素性が相反するものであり、設計・生産方式が全く違うものであるためである。旅客機と軍用機は似て非なるものであった。特に、採算性が悪い近距離線を運航する航空会社で収益を得るには、開発費を抑えた価格の安い機体を求め、そのために性能面で高い要求を出さず、機体構造や機能部品などの新しい性能の優れた機体よりも既に開発・改良し尽くされて故障が少なく、耐用期間が長い、補修部品の入手や整備も容易な信頼性の高い航空機を購入し、稼働率を高めて経費の節減を図っている。YS-11が短距離路線で企画・設計された以上、対象とするユーザーである近距離路線を運航する航空会社に対して、その部品供給サービスを怠り、技術偏重体質のまま後継機種に高い性能を指向した近距離用ジェット旅客機を想定していたことは、資金難で経営不安説も流れた日航機製造がするべきことではなかった。日航機製造がするべきことは機体のコストダウンや批判されていた操縦性の改善、更なる経済性や快適性の向上であり、加えて補修部品の供給体制を含めた販売網の構築であったのである。それは航空機開発技術力の向上を求めた通産省や機体製造に関わった航空機メーカー各社の望むものではなかったのである。 時代の進展と共に外部環境が変化したことで、軍用機を基に設計されたYS-11の素性では、旅客機としての機能が期待した市場では受け容れ難く、今後の販売増加は見込まれないこともあった。日本航空機製造の解散を提言したのは当時の通産省重工業局長であった赤澤璋一である。赤澤は輸送機設計研究協会設立に奔走した当時の通産省重工業局航空機武器課課長でもあり、自らYS-11の誕生と幕引きを行ったことになった。 YS-11は1973年(昭和48年)5月11日に通算181号機が完成(182号は先に納入)し、これを以って生産を終了、181号機は改造された上で1974年(昭和49年)2月1日、海上自衛隊へ納入された。日航製造は設計など開発部門の廃止など規模を縮小され、飛び続けるYS-11のアフターサービスのみを受け付けた。 この時点でYSの民需は145機、競合機ホーカー・シドレー HS748は118機で、YS-11はフレンドシップに次ぐ売り上げであった。 日航製造が構想していた新型機の開発母体は、三菱・川崎・富士ら航空宇宙工業会が設立した日本民間輸送機開発協会(1983年から日本航空機開発協会)に移された。幾多の変遷からアメリカのボーイング社による新世代の大型ジェット機7X7の開発協力となり、完成したボーイング767は日本の分担比率15パーセントとなっているが、担当した日本企業はほとんど下請けと変わらないものであった。 日航製造は1981年(昭和56年)12月28日の閣議により、1982年度(昭和57年度)末までに民間へ業務を移管し解散する事が決定された。会社は航空機工業振興法第26条に基づく解散決議の通産大臣認可を受け、1982年(昭和57年)9月7日に業務を全て三菱に引き継いで解散した。累積赤字は約360億円に達した。一方、同月にボーイング767はアメリカで就航し、後に日本航空や全日本空輸も導入し運航することになった。日航製造は1983年(昭和58年)3月23日に閣議決定に基づいて企業登録を抹消された。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}YS-11の点検整備や修理は、現在も三菱重工が引き継いで行っている。[要検証 – ノート]図らずも三菱はその後、YS以来となる国産旅客機「Mitsubishi SpaceJet」(旧称:MRJ)を開発し、再び日本の空に日本の翼を復活させる役目を担うことになる。
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