経営不振から解散へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:45 UTC 版)
別府・大分間に電気鉄道を敷設した豊州電気鉄道であったが、開業当初は物珍しさで多数の乗客を集めたものの、開業ブームの終了後は短距離は人力車、長距離は乗合馬車の利用が一般的な時代であったため、馬車と所要時間で大差がないのに料金が割高な鉄道の利用は振るわなかった。また電気に関する知識が普及しておらず、電気で走る電車は危険という誤解も客足が遠のく一因となったという。加えて1901年7月に電車同士の正面衝突事故を起こすなど運行そのものも不安定であった。1902年(明治35年)7月、神崎に代わって後藤喜太郎(大分町の人物)が第4代社長となるが、翌1903年(明治38年)8月には甲斐治平(同じく大分町の人物)に代わった。 鉄道が不振のため、豊州電気鉄道では別府発電所に出力60キロワットの交流発電機1台を増設し、1904年(明治37年)8月から別府町・浜脇町を供給区域として電灯供給事業を開始した。当時すでに大分県では竹田にて竹田水電、西部の日田で日田水電がそれぞれ1900年と1901年に開業し、前年にも北部の中津で火力発電により京都電灯中津支社が開業しており、徐々に電気の利用が普及していた。こうした状況の中で供給事業の兼営を始めた豊州電気鉄道では、1904年時点で323戸に電灯1,273灯を供給したが、経営改善の効果は薄く、同年度の利益金は2千円余り(払込資本金に対し1パーセント)にとどまった。そして翌1905年(明治38年)には欠損を出すに至った。 こうした経営不振により株主間の対立を招いて社内は混乱するようになる。そのような中、1903年3月に豊州電気鉄道の役員を退いていた愛媛県の実業家佐々木長治(西南銀行頭取)を中心として、債権者による会社の破産申請の訴訟が起こされた。当時豊州電気鉄道は負債15万3千円余りの返済が困難になっていたという。佐々木らの訴えは大分地方裁判所により1904年末に認められ、豊州電気鉄道は破産宣告を受けた。その後同社は債権者に財産一切を譲渡して負債を消却するという破綻処理をとることとなり、1906年(明治39年)1月30日の臨時株主総会で会社解散を決議した。
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