細菌学者らとの論争とハンブルク事件
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「マックス・フォン・ペッテンコーファー」の記事における「細菌学者らとの論争とハンブルク事件」の解説
1876年にロベルト・コッホは炭疽菌を発見し、これが動物の炭疽の原因であることを証明した。さらに1882年に結核菌を発見したことによって、ヒトにおいても細菌こそが病気の原因であり、それがいわゆるコンタギオンとして伝染しているという「細菌=病原体説」が提唱され、細菌学が一気に医学分野の最先端として隆盛を迎えた。しかし病気の原因が環境汚染にこそあると考え、公衆衛生の重要性を第一に考えていたペッテンコーファーは、この説に異論を唱え、しばしば細菌学研究者と論争を起こした。例えば、1888年にはパリの灌漑農場拡張事業の是非を巡って、病原細菌が灌漑地に蓄積される危険性を指摘し反対の立場をとったルイ・パスツールに対して、「細菌学者の机上の理論でしかない」と反論し、灌漑賛成の立場をとった。 ペッテンコーファーが行った論争のうち、最も有名なものはコレラに関するものである。ペッテンコーファー自身は、上述したように、コレラ発生の原因として複合病因説を提唱して、自他ともに認めるコレラ研究の第一人者になっていたが、1883年にコッホがコレラ患者からコレラ菌を分離し、本菌こそがコレラの病原因子であると主張したことで、ヨーロッパ医学界を二分する大きな論争に発展した。 また、ペッテンコーファーは、衛生学の第一人者として細菌学者らと論争しただけでなく、同じ衛生学の分野でも論争を起こしていた。イギリスでのコレラ流行時に初めて疫学調査を行ったスノーとは、公衆衛生の実践方法として、上水道に対する見解の違いで対立した。疫学調査から水源(井戸)の重要性に注目して上水道の整備を重要視したスノーに対し、ペッテンコーファーは、上水道の重要性について認識していなかったわけではなかったが、むしろ下水道の整備こそが重要であるとの考えを曲げなかった。イギリスの一開業医に過ぎなかったスノーと、すでにドイツ医化学界の重鎮であったペッテンコーファーという、立場の大きく異なる両者の論争だったが、これもヨーロッパを二分する衛生学上の大きな論争になった。 この後者の論争については、1892年8月に起きたドイツハンブルクでのコレラ流行のときに終結を迎えた。当時、ハンブルクとその近郊のアルトナという二つの都市は、人口規模も同程度で、同様の下水処理施設を保有し、同じエルベ川の水を水源としていた。しかし、この2つの都市では上水処理方法にのみ違いが見られた。ハンブルクではペッテンコーファーの説に従い、短時間沈澱処理という簡便な上水処理だけを行っていたのに対し、アルトナでは緩速砂ろ過処理という、より厳密な上水処理が行われていたのである。そして1892年のコレラ流行では、ハンブルクで8500名のコレラ患者が出たのに対し、アルトナではわずかな患者が出るにとどまった。この結果は、コレラの予防における上水処理の重要性を如実に示したものであり、ペッテンコーファーは論争に敗れたことを認めざるを得なかった。
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