紫の肖像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 21:28 UTC 版)
『紫の肖像』(むらさきのしょうぞう、原題: Who do We think We are)は、イングランドのロック・バンド、ディープ・パープルが1973年に発表した第2期最後のスタジオ・アルバム。
出典
- ^ ChartArchive - Deep Purple
- ^ Deep Purple - Awards : AllMusic
- ^ 『オリコンチャート・ブックLP編(昭和45年‐平成1年)』(オリジナルコンフィデンス/1990年/ISBN 4-87131-025-6)p.205
- ^ Popoff (2016), pp. 102, 105, 109.
- ^ Popoff (2016), p. 111.
- ^ Popoff (2016), p. 115.
- ^ Popoff (2016), p. 117.
- ^ Popoff (2016), p. 118.
- ^ Popoff (2016), p. 23.
- ^ “allmusic.com”. 2024年1月12日閲覧。
- ^ Popoff (2016), p. 122.
- ^ Popoff (2016), p. 135.
- ^ Popoff (2016), pp. 136, 138.
注釈
- ^ ブラックモアは3月29日のニューヨーク公演のあと肝炎に罹患して離脱。彼等は31日のフリント公演を4人で行ない、4月6日のケベック・シティー公演ではランディー・カリフォルニアの助けを借りた。ブラックモアの罹患が判明した時点で、アメリカ・ツアーの残りは一旦全てキャンセルされ、5月の日本ツアーは延期されることが決まった。
- ^ 6月30日と7月1日にツアーの合間を縫ってアメリカからロンドンに急行してレインボウシアターでコンサートを開き、1日のコンサートで最大112デシベルを計測して、コンサートの音量の最大記録を作った。その後、またアメリカに戻ってツアーを続けた。
- ^ ブラックモアはギターのダビングをトラックの中で行なったという。
- ^ 1965年に利益団体のNational Viewers' and Listeners' Association(NVLA)を設立して、新聞、出版、放送などの媒体の検閲強化を主張した。
- ^ 日本で『ライブ・イン・ジャパン』が発表されたのと同じ時期に行なわれた脱退表明だった。
- ^ 彼はペイスとシン・リジィのフィル・ライノットを誘って、トリオを結成するつもりだった。因みに1972年の初めに、彼がディープ・パープルを脱退してライノットとバンドを結成するという噂が流れたことがあった。
- ^ グローヴァーはツアーの途中、他のメンバーが自分に冷淡な態度を取ることに気づいた。彼はその事を訝しがって、6月15日のジャクソンビル公演の後でマネージャーのトニー・エドワーズを詰問し、ブラックモアが「ロジャーが辞めなければ自分が辞める」と主張していることを知った。日本公演最終日の約2週間前のことだった。
- ^ 前述のように、ギランは約半年前の1972年12月9日に、この日に脱退すると表明していた。
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