糠岳での戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:33 UTC 版)
6月19日(7月11日)、朝鮮軍は巨済島を出航した。 6月20日(7月12日)昼頃、対馬の海岸(尾崎浦)に到着した。対馬の盗賊たちは、先行する朝鮮軍10隻程度が現れると、仲間が帰ってきたと歓迎の準備をしていたが、大軍が続いて迫ると皆驚き逃げ出した。その中50人ほどが朝鮮軍の上陸に抵抗するが、敗れて険阻な場所へ走り込む。上陸した朝鮮軍はまず、出兵の理由を記した文書を使者に持たせ、宗貞盛に送った。だが答えがないと、朝鮮軍は道を分けて島を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした。また同日、倭寇に捕らわれていた明国人男女131人を救出する。以後、朝鮮軍は船越に進軍し、柵を設置して島の交通を遮断し、僅かな食糧を持って山に逃げ込んだ盗賊たちの飢え死にを図って、長く包囲し留まる意を示す。 6月29日(7月21日)、李従茂は部下を送り、島を再度捜索し、加えて68戸と15隻を燃やし、9人を斬り、朝鮮人8人と明国人男女15人を救出する。そして仁位郡まで至り、再び道を分け上陸した。しかしその頃、対馬側はすでに壱岐の松浦党に援軍を要請し険難な山の奥に伏兵を配置していた。そして朴実が率いる朝鮮左軍が、糠岳で対馬側の伏兵に会い敗北、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死した。だが朝鮮右軍が助けに入り、右軍の武官・李順蒙が対馬側の先鋒の指揮官らしき者を矢で射ち殺すと、対馬側は退いた。
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