簒奪
簒奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 05:31 UTC 版)
「ロデリック (西ゴート王)」の記事における「簒奪」の解説
754年の年代記によると、ロデリックは元老院の後押しを受け波乱含み(tumultuose)で王国(regnum)を占領したという。歴史家たちはこれらの言葉の正確な意味について長く議論してきた。前にも起こったことのある典型的な宮廷クーデターではなく、むしろはっきりと王国を二分しようと宮廷へ暴力的な侵略行為を行ったとみられている。 この侵略が王国の外側からのものでないことが推測される。なぜならregnumという言葉は王座を意味し、おそらくロデリックは容易に王冠を簒奪したとみられるからである。それにもかかわらず、ロデリックは地方の司令官(伝承によれば、のちにバエティカのドゥクスとなった)であったか、クーデターを企てた際には亡命の身ですらあった。 正統の王ウィティザの暗殺または廃位に、または彼の自然死の原因に関係していようがいるまいが、tumultとはこの簒奪行為がおそらく力ずくであることをうかがわせる一部の学者たちは、アギラ2世がロデリックの対立王であり、ロデリックはアギラ2世から王座を奪おうとしたと信じている。アギラ2世は実際にウィティザの息子でかつ後継者であった。 ロデリックがクーデターを成し遂げた元老院は、おそらく『有力貴族と一部の司教』から構成されていただろう。反乱側に聖職者が参加したことには議論がなされている。一部の人々は、司教からの支持を得たことは、王位簒奪というレッテルを貼られる行いにつながらなかったと主張する。現世における教会の支配者は、レカレド1世時代以降の西ゴート王国王位継承を決定するのに権力を持つ存在であった。しかし、王位継承権を持つ王族は、西ゴート王国最後の数十年間に彼らの影響力を封じようとした歴代国王の措置にそれほど影響を受けなかった。これは711年のクーデターでの彼らの影響から明らかである。
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簒奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:11 UTC 版)
サルゴン2世が簒奪によってアッシリア王位に就いたのかどうかについては論争がある。サルゴン2世が簒奪者であったということは、主に彼の名前(これは「正統なる王」を意味するであろう)の背後にある意味について考えられる解釈と、サルゴン2世の多数の碑文が彼の出自にほとんど言及しないということに基づいている。アッシリアの王たちの確立された系譜の中でサルゴン2世がどのような位置にあるかということの説明が欠如しているということは、サルゴン2世だけではなく、彼の父とされるティグラト・ピレセル3世と、息子で後継者のセンナケリブの碑文のいずれにも共通する特徴である。ティグラト・ピレセル3世は簒奪によって王となったことが知られているが、センナケリブはサルゴン2世の嫡子であり正統な後継者であった。センナケリブが自身の父について沈黙していることについての複数の説が出されている。もっとも受け入れられている説は、センナケリブが迷信深く、父の身に降りかかった不運を恐れていたということである。あるいは、センナケリブはアッシリアの歴史の新しい時代を始めることを望んだか、父に対する恨みを持っていたとも考えられる。 サルゴン2世は時にティグラト・ピレセル3世に言及している。サルゴン2世は多数ある彼の碑文のうち2つにおいてのみ明確に自分がティグラト・ピレセル3世の息子であるとしており、石碑の1つで「王家の父祖」に言及している。もしサルゴン2世がティグラト・ピレセル3世の息子であるならば、彼は恐らく父・兄の治世中に重要な行政または軍事的な地位を保持していたであろう。しかし、サルゴン2世が王位に就く前に使用していた名前が不明であるため確認することができない。その治世を通じて宗教的施設への愛着を繰り返し示したことから、彼は何らかの宗教的役割を果たしていた可能性があり、それはハッラーン市の重要なsukkallu(高官)を務めていたというものであるかもしれない。彼が実際にティグラト・ピレセル3世の息子であったかどうかはともかく、サルゴン2世は前任者たちから距離を置こうとしており、今日ではアッシリアの最後の王朝(サルゴン王朝)の創設者であると見なされている。遅くとも前670年代には言及されているとおり、サルゴン2世の孫エサルハドン(アッシュル・アハ・イディナ)の治世中、「かつての王族の子孫」が王位を奪いとろうという試みがあった。これは、サルゴン王朝が必ずしも以前のアッシリアの君主たちと良く結びついていなかったことを示唆している サルゴン2世の血脈とは関係なく、シャルマネセル5世からサルゴン2世への継承はぎこちないものだったであろう。サルゴン2世の碑文の中で、シャルマネセル5世に言及するものは次の1つしかない。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}世界の王を恐れざる者シャルマネセル、彼の手はこの都市[アッシュル]に冒涜をもたらし、彼の臣民に労働者の如く、強制労働と重い賦役を課した。神々のイッリル(Illil)は彼の心中の怒りにおいて彼の統治を覆し、余、サルゴンをアッシリアの王に任命した。彼は我が頭を上げ、王笏、王位、ティアラを余に取らせた。 この碑文はシャルマネセル5世の破滅についてよりもサルゴン2世の即位についてより詳しく説明している。他の碑文によって証明されているように、サルゴン2世はシャルマネセル5世によって課されたとしている不正を見てはいない。サルゴン2世の別の碑文群は、アッシュル市やハッラーン市のような重要な都市の免税は「古の時代に」取り消されており、ここで述べられた強制労働はシャルマネセル5世ではなくティグラト・ピレセル3世の時代に実施されたと述べている。
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簒奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:26 UTC 版)
ハクピシュ副王としてネリクを奪還する働きをみせ、自分の生涯で最高の功績と自賛している。そのため長男には「ネリクの人」を意味する「ネリッカリ」と名づけたほどである。ムワタリの死後、その息子で甥にあたるムルシリ3世が王位についたが、ムルシリ3世は庶子であり、このことがムルシリ3世と他の王族の間に軋轢を生み出していた。それでもハットゥシリ3世は当初ムルシリ3世を支持していた。 しかし両者の関係は次第に悪化。ムルシリが誇るべきネリク長官の地位を奪って自分を排除しようとしたので、先手を打ってムルシリ3世を追放して王位についた、とハットゥシリは自らの年代記で主張している。一方で、ムルシリ3世の弟クルンタをかつてムワタリが首都を構えたタルフンタッシャの王に任じて、親ムルシリ3世派の懐柔を図った。また神助であることを強調して自分の即位を正当化した。息子のトゥドハリヤでさえ父の簒奪には批判的で、父の側について戦ったマストゥリという人物を批判している。
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簒奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 05:46 UTC 版)
ボリス・ゴドゥノフはこの僭称者の存在を聞くと、特にはっきりした情報も掴めないうちに、彼を逃亡した修道士グレゴリー・オトレピエフ(俗名ユーリー)だと宣言した。しかし、ボリスがこの噂を広めようと努力するほど、ドミトリー支持者が増えていった。何人かの大貴族は、ボリスの政府に服従しなくて済むという理由から、僭称者への支持を表明した。ドミトリーは多くの支持者を得て小規模な軍隊を組織し、さらにポーランド・リトアニア共和国のマグナートから約3,500名のミリシア供出を受けて、1604年6月にロシア領内に入った。南部のコサックを始めとするゴドゥノフの敵対者達が、ドミトリーのモスクワ進軍に参加した。ドミトリー軍は戦意の低いモスクワ国家軍と2度交戦し、1度目はクルスクを始め4都市を陥落させて勝利したが、2度目は大敗しかけて滅亡寸前に追い込まれた。劣勢に立たされていたドミトリーが持ち直したのは、ツァーリであるボリス・ゴドゥノフの崩御の報が入ったおかげである。 ボリスの唐突な死でドミトリーを拒む大義名分を失ったロシア側は、うやむやのうちにドミトリー支持に回る者が相次ぎ、1605年6月1日(グレゴリオ暦6月10日)にはボリスの後継者フョードル2世がモスクワで逮捕された後、母親であるボリス・ゴドゥノフの妃マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤと共に処刑された。6月20日、僭称者は首都モスクワに凱旋入城を果たし、自ら新たに選んだギリシア人総主教イグナチオス(ロシア語版)の手で、6月21日に戴冠式を執り行った。
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