第二次執政期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)
事変の詳細及び首謀者をめぐる諸説については「壬午事変」を参照 1882年、閔妃派の待遇に不満を持つ旧式軍隊や大院君派が暴動を起こし、閔妃派を一掃して大院君を執政者に推薦する事件が起こった。大院君の側近である許煜は軍の先頭に立って閔妃を殺害しようとするが、閔妃は事変を察知しており洪啓薫の妹を装って宮中から脱出し、実家の驪州に身を隠した。閔謙鎬は重熙堂で乱兵に向かって「大監(大院君の尊称)」への命乞いを叫びながら殺された。宮中は乱兵が「中殿はどこだ」と叫びたてながら荒らしまわり、死体が燃やされて凄惨な光景が広がった。大院君は宮中に出廷して閔妃は死去したと虚偽報告と葬儀を行ない、高宗からは壬午軍乱の事態収拾の為に大権の委任を得た。大院君は閔妃の死を公式に宣言し、新式軍隊の武衛営・壮禦営・別技軍を廃止し、かわりに五軍営・三軍府を復設させた。
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