第二次侵攻とシンチュラ条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 00:58 UTC 版)
「ブータン戦争」の記事における「第二次侵攻とシンチュラ条約」の解説
1865年3月、イギリスは体勢の立て直しを図って指揮官を更迭し、トンプス准将、フレイザー・タイトラー准将を派遣する。両者は入念に補給線を確保しつつブータンに再侵入すると、相互に協調しながらブータン軍を領内に追い立てた。またジグミ・ナムゲルが小規模な戦闘で何度か敗北すると次第に反ジグミ・ナムゲル勢力が活動を再開し、旧来の同盟者ワンディ・ポダン・ゾンペンもそれに同調を始めたために窮地に陥った。その情勢の中でイギリス軍がデワンギリの要塞を再度占拠すると、もはやブータン国内にその侵攻を押しとどめられる勢力は存在せず、ブータンはイギリスに降伏する。 1865年11月11日にイギリスとブータンはシンチュラ条約に調印する。ブータンはこれによりアッサム、ベンガルにまたがるドゥアール地方を完全に喪失し、7,122平方キロメートルの領土を失った。先に併合されたアンバリ・ファラカタもイギリスのものとなった。またイギリス、コチ・ビハール、シッキムはブータンに治外法権を有するようになり、犯罪者はそれぞれの国の法律で裁かれた。そして当初の要求とおり自由貿易協定が締結され、ブータンはチベットへの交易路としての役割を求められた。一方、失った領土の補償として、ブータンにはイギリスから毎年50,000ルピーの補償費が支払われることになった。
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