第二次エチオピア戦争
第二次エチオピア戦争
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「イタリアの軍事史」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説
詳細は「第二次エチオピア戦争」を参照 ファシスト政権下でまず最初に行われた戦争行為は、かつて苦渋を味わわされたエチオピア帝国に対する植民地戦争の再開であった。同国を取り巻く外交状態は特に変化していなかったし、大義名分という点でも申し分が無かった。しかし最大の理由はファシスト政権により当初は成功していた経済政策が世界恐慌によって破綻しつつあった事で、対外的な行動で民衆の歓心を得ようとする政治的判断でもあった。地理的に隣国のエリトリアを植民地化していた点で兵の展開も容易であった。 両国はワルワル事件を契機に武力衝突へと突入し、1935年10月3日に正規軍の数個師団と植民地軍・国防義勇軍(黒シャツ隊)からなる遠征軍が派遣された。対するエチオピア軍は80万名近い大軍を召集、この内の少なくとも半数はライフル銃と軍服で武装した正規兵で、残りがアスカリと呼ばれる民兵であった。戦いから3日後にイタリア王国軍は因縁の土地であるアドワを攻め落とし、順調に進軍を続けていった。慎重な用兵を好むエミリオ・デ・ボーノが更迭された後、新司令官にはピエトロ・バドリオ元帥が着任した。 エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は僅かな望みに賭けて大攻勢を計画したが、エリトリア植民地兵に僅かな損害を与えただけに終わり、アドワの戦いの再現とはならなかった。メイチュウの戦いでエチオピア軍主力がイタリア王国軍に殲滅されると、セラシエは国外に亡命してエチオピア帝国は降伏した。 イタリア王国は周辺の領地を統合して東アフリカ帝国を樹立、イタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世が皇帝を兼務する同君連合となった。
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第二次エチオピア戦争
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説
詳細は「第二次エチオピア戦争」、「イタリア帝国」、および「ファシズム・イタリアにおける帝国主義(英語版)」を参照 1934年12月5日、エチオピア帝国とイタリア領エリトリア・ソマリランドの国境問題を巡り、イタリアとエチオピアとの間で武力衝突が発生した(ワルワル事件)。青年時代から第一次エチオピア戦争の復讐を望んでいたムッソリーニはこれを契機にエチオピアへの植民地戦争を再開し、エリトリア及びソマリランド駐屯軍に遠征準備を命じた。戦争にあたってムッソリーニは英仏と交渉を重ねて調整を進めていたが、左派の労働党や国民の平和主義運動に突き上げられた英仏は曖昧な態度を取り、最終的にリベラル寄りのスタンリー・ボールドウィン英首相と、反ファシストであった英外務副大臣アンソニー・イーデンの強い主張が通ってエチオピア側に立った。 イーデンの外交姿勢はストレーザ戦線を主導するなど旧協商国寄りであったムッソリーニをドイツへ接近させる結果を生み出し、この点において親ファシストであった外相サミュエル・ホーア、ウィンストン・チャーチルやイギリス王エドワード8世の考えとは対照的だった。特にイーデンの上位となる英外相ホーアはファシスト運動を初期段階から後援していたムッソリーニの旧友であり、「仮に経済制裁が行われても決して石油の禁輸は行わない」と約束していた。 1935年10月2日、ムッソリーニは外交交渉を切り上げることを決意し、ヴェネツィア宮からエチオピア帝国への宣戦布告演説を行った。 この数ヶ月間というもの、運命の歯車は常に我々の澄み切った判断に動かされ、本来それが目指すべき所へと向かってきた。…エチオピア帝国に対して我々は40年間忍耐を重ねてきたが、それはもう沢山だ。 経済制裁に対してイタリアは規律と節約、犠牲を持って戦うだろう。軍事制裁に対しては兵力を持って、戦争には戦争をもって戦うだろう。 1935年10月11日、国際連盟はイタリアに対する経済制裁を求める決議を行い、反対票を投じたオーストリア、ハンガリー、アルバニア、パラグアイを除く加盟国の賛成で可決されたが、石油を制裁から外すという譲歩も示された。イーデンは石油禁輸を主張して国内でキャンペーンを展開するなど侵略反対を貫いたが、ファシズムに好意的だったフランスのピエール・ラヴァル政権は禁輸に反対した。そもそも国際連盟にはアメリカが加盟していないので、貿易路が封鎖されなければいくらでも物資輸入は可能だった。それでも経済制裁はイタリアの経済や市民生活については少なくない悪影響を与え、自給率を上げるアウタルキア(自給自足経済)の構築が進められた。 イタリアとの和解を目指す英外相ホーアと仏首相ラヴァルは、エチオピアに対してイタリアへの大幅な領土割譲を要求するホーア・ラヴァル協定を纏め、ボールドウィン英首相も一旦はこれを受け入れた。だが労働党と国民は猛烈な政府批判を繰り広げ、総選挙を控えていたボールドウィンは協定を破棄してホーアは辞任に追い込まれた。代わって外相に昇格したのがイーデンであり、外相となってからは石油禁輸どころかスエズ運河の封鎖まで主張するに至っている。イタリア国内ではボーア戦争の戦争犯罪を取り上げた報道が行われるなど反英主義的が隆盛して、紅茶など「イギリス的な物」はアウタルキアの一環として禁止された。「イタリアで最も憎まれた男」であるイーデンに至ってはイタリア中から悪罵され、イーデン(Eden)と同じ綴りとなる全ての地名が変更された。こうした排外主義はイタリア国民の愛国心や継戦意思を強める結果をもたらし、戦争を止める上では逆効果だった。「52カ国の包囲」と呼ばれた国際的な孤立はヴェルサイユ条約以来、国際外交に反感を持っていたイタリア国民からは「国益を守る戦い」と受け取られ、国家への忠誠心が最も高まった。 ローマ帝国の最大領域イタリア帝国主義が主張していた領域 前線の戦いはエミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥、ピエトロ・バドリオ陸軍元帥、ロドルフォ・グラツィアーニ陸軍大将らが指揮を執り、開戦からすぐに因縁の土地アドワを占領している。冬の時期を迎えると一時的に進軍は停滞したが、1936年の春に行軍が再開されると同年中にエチオピア全土を制圧した。1936年5月2日、敗北したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエは特別列車でジブチへ逃亡を図り、これを空軍部隊で補足したグラツィアーニは列車を攻撃する予定だったが、ムッソリーニは提案を却下した。イタリア側の死傷者は本国兵士が2500名、植民地兵(アスカリ)が1600名と軽微であった。戦闘ではピエトロ・バドリオ元帥の主張によって毒ガスも使用されたが軍事的な効果は限定的で、元よりハーグ陸戦条約違反(ダムダム弾の使用、兵士の遺体損壊)への報復として使用している。併合されたエチオピア帝国の帝位は宣言通りエマヌエーレ3世が兼任し、後に旧エチオピア帝国領は周辺のイタリア領植民地と合同されてイタリア領東アフリカへ再編された。 1936年5月5日、ヨーロッパ系の植民者達から歓声を受けつつ、白馬に乗ったバドリオ元帥が首都アディスアベバに入城して戦争は終結した。同日夜、ヴェネツィア宮の大広場に集まった国民に向けて、ムッソリーニは「エチオピア帝国への戦勝」と「サヴォイア家が皇帝の称号を得る」という二つの輝かしい出来事を報告した。熱狂する国民を前に『諸君らはそれに値するか?』とムッソリーニが問いかけると、『そうだ!』(Si、スィ)との大歓声が何度も上がった。続いて自らの主君であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は今日を持って王から皇帝となり、ローマ帝国以来となる「イタリアにおける帝国の復活」も宣言した(イタリア帝国、Impero Italiano)。 戦争反対論を掲げていたイギリスのボールドウィンとイーデンは戦いが長期化するという読みが外れて面目を失い、保守党政権でイタリアを支持してきたネヴィル・チェンバレンやウィンストン・チャーチルらが力を持ち始めた。チャーチルはイーデンのスエズ運河封鎖計画に反対し、ボールドウィンが後継首相に考えていたチェンバレンは制裁解除を求める演説を行っている。また戦争終結直前に駐英大使ディーノ・グランディと謁見したエドワード8世も、「イタリアの戦勝に対する心からの喜び」を示したという。周囲の意見に屈したイーデンは国際連盟で「もはやいかなる有用性もない」として制裁解除を求め、7月15日に国際連盟は経済制裁を解除した。 国家ファシスト党が初期段階から唱えていた拡張主義・生存圏理論である不可欠の領域(イタリア語版)を求める動きは、ローマ帝国時代を思い出させる「イタリア帝国」の成立によって勢いを増した。ただしイタリア帝国主義の目標は地中海圏の統合ではなく、エジプトから西アフリカ、バルカン半島西部、東地中海の島々と現状の飛び地を結ぶ構想であった。1938年3月30日には帝国全体の統帥権として帝国元帥首席(Primo maresciallo dell'Impero)が創設された。ムッソリーニは帝国元帥首席にヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と共同就任することで実質的に統帥権を分与されている。またヴィットーリオ・エマヌエーレ3世からは公爵への叙任が提案されたが、「私は今迄通りのベニート・ムッソリーニであります、陛下」と返答して爵位を辞退し、代わりに「帝国の創設者(イタリア語: Fondatore dell'Impero、フォンダトーレ・デッリンペーロ)」の名誉称号を与えられている。
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第二次エチオピア戦争
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「ロドルフォ・グラツィアーニ」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説
1935年10月3日、第二次エチオピア戦争が発生した時点でグラツィアーニはソマリランド総督の任期中であった為、そのままエリトリア・ソマリランド方面軍の司令官を兼務してエミーリオ・デ・ボーノ陸軍元帥指揮下でエチオピア帝国西方からの侵攻を担当した。グラツィアーニはオガデン州への進軍を行い、ドイツ軍のヒンデンブルク線を参考にトルコ軍の援助で建設された要塞線「ヒンデンブルク壁」に立て篭もるエチオピア帝国軍と対峙した。開始されたオガデンの戦い(英語版)ではエチオピア帝国軍の抵抗を退けて要塞線を突破、オガデン州を制圧して首都アディスアベバへの追撃を開始した。 同年12月、過度に慎重なデ・ボーノ元帥が更迭されてバドリオ元帥が後任の遠征軍総司令官となり、デ・ボーノ元帥とは正反対に積極的な攻勢を命じるバドリオ元帥は毒ガスや戦略爆撃も厭わない強行軍で軍を進ませ、メイチュウの戦いでエチオピア帝国軍主力を殲滅した。1936年5月5日、オガデン州制圧後は北方へ進んでいたグラツィアーニは一足先に首都アディスアベバにバドリオ元帥が入城して戦争が終結したとの報告を受けた。既に元帥就任時に侯爵位を与えられていたバドリオ元帥はアディスアベバ公(duca di Addis Abeba)に昇爵する名誉に与ったが、手柄を横取りされた形となるグラツィアーニに対してもサヴォイア家からネゲッリ侯(Marchese di Neghelli)の爵位が与えられた。1936年5月9日、伊領ソマリランドと伊領エリトリア、旧エチオピア帝国領を統合して伊領東アフリカ帝国が建国され、ソマリランド総督の任務を終えたグラツィアーニは陸軍元帥へ昇格、これまで上官であったバドリオ元帥やデ・ボーノ元帥らと並ぶ地位を得た。
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第二次エチオピア戦争(1935-1936)
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「軍用売春宿」の記事における「第二次エチオピア戦争(1935-1936)」の解説
イタリアがエチオピアを併合すると(第二次エチオピア戦争)、進駐するイタリア軍兵士やイタリア人労働者の為に売春宿が各地に作られた。軍が売春宿を運営していたという報告もある。 イタリア人労働者向けに、移動売春宿「ビーナスカー」を設ける計画もあったが、こちらは実現しなかった。
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第二次エチオピア戦争
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「エチオピアの歴史」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説
エリトリアのイタリア軍はエミーリオ・デ・ボーノ元帥の指揮の下、1935年10月3日にエチオピア国境を侵犯して領内に突入した。そのうち一軍はアドワに向かい、爆撃を駆使してそこを占拠する。この時、エチオピアは国際社会に対してイタリアの仕掛けた戦争と印象づけるために防衛行動を行わず、アドワから南方へと移動していた。イタリア軍はエチオピア軍が駐屯するマクァレに向けてさらに前進する。しかし、デ・ボーノの北イタリア軍は現地の傭兵である不正規兵を用いていたために練度が低く、指揮官の性格もあって慎重な攻防戦が続いた。この遅滞は、国際連盟で石油輸出制裁が可決される前に戦争を終わらせたいムッソリーニにとってはもどかしく感じられ、エチオピア軍のダムダム弾使用に乗じて1925年のジュネーブ協定で禁止された毒ガスの使用を促す。だが、デ・ボーノは毒ガスの使用に難色を示し、かつ補給線が延びきっている危険性から作戦の変更を求めたため、名誉を損なわない形で前線から外される。代わりに司令官となったピエトロ・バドリオは航空機で毒ガスを広く散布し、兵士のみならず一般市民に大きな打撃を与えた上でマクァレを占領し、ティグレを勢力圏に組み入れた。また、アドワとマクァレの中間地点のタンベン・テンビエンにおいてイタリア軍はエチオピアの陸相ムルゲタの軍との戦いとなり、エチオピアから三方面を包囲されかけたが、毒ガスによって相手を足止めし、ムルゲタの本隊を集中的に狙いうつことでこれを撃破した。さらに追撃の最中にムルゲタを殺害してアドワにおける敗戦の溜飲を下げる。双方の決戦となったのは、マイチャウの町における攻防戦だった。この戦いにおけるイタリア軍の攻撃は、ほぼ虐殺に等しかった。上空からマスタードガスを撒きちらされ、肌が爛れる激痛に抗戦力を失ったマイチャウの町に、イタリア軍は執拗に爆撃と銃撃を加える。兵士も市民も次々と倒れていき、生き残った者には爆風で舞い上がって液化したマスタードガスの雨が降り注いだ。その上、マイチャウと近くのデシェの病院は重点的に爆撃された。これが後にハイレ・セラシエが「最大の悲劇」と語る殲滅戦だった。エチオピア北部に展開したエチオピア軍は壊滅し、タナ湖畔に逃れたハイレ・セラシエの兵力はすでに5,000人を切っていた。これは首都アディスアベバの防衛どころか、皇帝ハイレ・セラシエの安全すら保障できない兵力であり、アディスアベバの議会は皇帝にイタリア軍から離れるように懇願した。ハイレ・セラシエは4月30日にアディスアベバに戻ると、一族と側近を連れて5月2日首都を後にした。皇帝はフランス領ソマリランドに逃げ込むと、ロンドンへ向けて出航する。ハイレ・セラシエには、毒ガス使用と戦争の不当さを国際世論に直接訴えかける方法での抵抗を選んだのだが、エチオピア国内に残って敵を迎え撃つ将兵、諸侯の一部にとって、それは祖国の放棄に他ならなかった。そのため、ハイレ・セラシエに対する不満は諸侯の間に暗い影を後々まで落とすことになる。また、軍隊と指導者の消滅はアディスアベバを混沌に落としいれ、統制を失ったエチオピアの兵士と市民によって大規模な略奪と暴動が発生した。5月5日、イタリア軍はアディスアベバに入城を果たす。まずイタリア軍がしたことは、武力抵抗したもの、皇帝に保護優遇されたもの、暴動に加わったもの、武器を捨てないものを捕らえて処刑することだった。 このパドリオの北部戦線に対し、ソマリアから西に進んでいたグラツィアーニの軍は近代化されたイタリア本国の部隊が中心であったため、通常の戦術でエチオピア軍を圧倒していた。エチオピア東部に住むオロモ人からも協力を得て5月8日にはハラールを占領し、イタリアの初期の軍事目標であるエチオピアの3分の1に該当する北部と東部の制圧を達成した。しかし、未だ各所には抵抗するエチオピア軍と諸侯が存在し、そのためにエチオピアの当初の目的であった移民活動については遅々として進まなかった。 アディスアベバとハラールの制圧と時をおかず、5月9日、イタリアはエリトリア、イタリア領ソマリランド、エチオピアの三か国にわたるイタリア領東アフリカ帝国の建国を宣言した。その皇帝にはイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が即位し、エチオピア皇帝に習ってネグサ・ナガスト(諸王の王)を名乗った。
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第二次エチオピア戦争
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「エチオピア軍事史」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説
1935年10月3日、ファシストのイタリア王国はイタリア領エリトリアとイタリア領ソマリランドからエチオピア帝国に侵攻した。エチオピア人は禁止されたダムダム弾を使用し、捕虜の兵士を切り刻んだが、イタリア人は多くの戦闘で化学兵器を使用した。 第二次エチオピア戦争、スペイン内戦、満州事変は、しばしば第二次世界大戦の前触れとして、国際連盟の無力さを示すものとして見られている。1941年には、数年の占領の後、皇帝ハイレ・セラシエ1世は、現在イタリア領東アフリカと呼ばれているものに戻ってきた。イギリスの助けを借りて、皇帝はゲリラ戦の後、イタリア軍を国から追い出すための反抗を導いた。
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第二次エチオピア戦争
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「エチオピア戦争」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説
詳細は「第二次エチオピア戦争」を参照 領土拡大を図るイタリアはドゥーチェ・ムッソリーニの指導の下、国境紛争を口実に再びエチオピアに侵攻した。 数十年の間に近代的装備を失いつつあったエチオピア軍に圧勝し、皇帝ハイレ・セラシエ1世は亡命してイタリア国王がエチオピア皇帝を兼任した。 1941年、イギリス軍がイタリア軍を駆逐するとハイレ・セラシエが帰国し、軍の近代化を進めることとなる。
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第二次エチオピア戦争
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「イタリア領東アフリカ」の記事における「第二次エチオピア戦争」の解説
しかし、イタリアはアフリカにおいてイタリア領ソマリア、エリトリア、リビアの3ヶ所しか植民地を保有していなかったため、再度エチオピア獲得を目指した。1934年にエリトリア、エチオピア国境で発生した銃撃戦は、いったん和平交渉の形をとったものの、1935年10月2日にベニート・ムッソリーニがエチオピア侵略を開始。これを第二次エチオピア戦争という。エリトリアとソマリランドから進入し、1936年5月5日にはエチオピアの首都アディスアベバが陥落。5月9日にはイタリア領ソマリアとエリトリアを併せた東アフリカ帝国(エチオピア帝国)が建国され、イタリア国王であったヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がその皇帝(ネグサ・ナガスト Nəgusä nägäst, 王の中の王を意味する)となった。また、エチオピア侵攻の際総司令官だったピエトロ・バドリオが副王(イタリア語で「Viceré」イタリア領東アフリカの6州連合で最高位の植民地高官を意味し、エチオピアを占領した1936年5月5日から、最後のイタリア人行政官が連合国に降伏した1941年11月27日まで「高等弁務官」ではなく「副王及び総督」と呼ばれた)、次いでアディスアベバ公爵に任じられた。 エチオピアは1923年に国際連盟に加入していたため、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は連盟に援助を要請した。しかし、連盟の加盟国間での意見は一致しなかった。ソビエト連邦はイタリアの行為を侵略と認めたが、当時共産主義国であったソ連と対立していたイギリスとフランスはイタリアとの戦争を恐れ、イタリアの行為を承認。結局、連盟の採決はイタリアを処罰しないというものになった。 その後、イタリア人が移住する入植の推進が始まる。イタリアはアディスアベバの町をイタリア領東アフリカの首都とし、道路網の建設と農業プランテーションに育成と軽工業を中心とした工場の建設を進めた。銀行制度や独自通貨発行、郵便制度なども整備した。しかしながら、特にエチオピア地域で反発が強く、植民地経営は中々上手くいかなかった。
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