窮地に立つ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:20 UTC 版)
しかし、10月6日に蘆名盛隆が家臣に殺害されたことで、重家を取り巻く状況が暗転し始める。天正13年(1585年)5月、伊達輝宗に家督を譲られた伊達政宗が蘆名と開戦し(関柴合戦)、秋には上杉に新発田への道を貸すなど、輝宗による越後介入路線を完全に放棄した。さらには10月8日には輝宗が死んだことで、伊達・蘆名両家による重家の支援体制は崩れ、重家は後ろ盾を失った。加えて11月20日に新潟城と沼垂城が藤田信吉の調略によって上杉方の手に落ちると、新発田方は新潟港から塩の津潟を経由して新発田に至る水利権を失い、これにより物資の大量輸送が困難になり、蘆名家との津川経由のルートによって当面の物資を補給せざるをえない状況に追い込まれた。 天正14年(1586年)、景勝は上洛して正式に羽柴秀吉に臣従した。これによって強力な後ろ盾を得た景勝は、新発田攻めに全力を傾けたものの、決着をつけることは出来なかった。しかし、この頃になると新発田方では兵糧が欠乏し、配下の討死や寝返りなどもあって戦力が目に見える形で衰えていった。 天正15年(1587年)夏、秀吉の支援を受けた景勝は1万余の大軍をもって新発田城を遠巻きに取り囲んだ。また、景勝と親交があった青蓮院門跡・尊朝法親王が重家に和睦を勧告したが、重家はこれを断固としてはねつけた。周囲の諸城は上杉勢に次々攻略され、金上盛備が赤谷城の救援に向かうも藤田信吉に阻まれて撤退。9月19日、赤谷城が攻略された事により補給路は陸路・水路共に完全に寸断され、新発田城は義弟の五十公野信宗らが籠る五十公野城共々、孤立した。 9月24日、秀吉からの使者が先ず景勝に対し派遣された。「因幡守(重家)城を出て降参すれば赦すべし」との降伏勧告・ただし助命条件であり、景勝は使者を新発田城に送った。使者は重家に対面して勧告内容を伝えたが重家は拒否、景勝は秀吉に早飛脚を送り勧告の結果を報告した。折り返し、秀吉から景勝に対し「来春までには落着すべし」と厳命が下ったことにより、景勝は先ずは五十公野城を総攻撃することになった。
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「窮地に立つ」の例文・使い方・用例・文例
- そのために彼は窮地に立つことになった.
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