社会の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:28 UTC 版)
将来の地震発生の可能性を示唆する情報に対して、社会の関心は高い一方で、こうした情報により社会的混乱が発生した事例は数多くある。本項目#黎明期にある事例の他にも、例えば以下のような事例がある。 1978年、ギリシャのテッサロニキ近郊で、5月から強い地震が立て続けに起きた。震源がだんだんと市街地に近づいていることや、過去2回の地震が満月に近い時期に起こったことが分かると、市民の間で不安が広がった。7月中旬には、地元新聞が月の満ち欠けと地震の関係を強調する見出しで地震の記事を掲載したり、市や軍が万一に備えた計画を立てていることを報じたことで、不安が煽られパニックとなった。7月18日に3紙が地震疎開に関する噂などを否定する記事を掲載したが手遅れで、満月の7月20日に同国のカラマンリス首相がテッサロニキ市に入って市民を招いた無料の大パーティーを開いて事態収拾を図る事態となった。結局地震は起こらず、翌日の新聞には8万人の大パーティの様子が掲載された。 1978年、メキシコのオアハカ州では「4月23日に同州ピノテパ市(Pinotepa)で大地震が起こる」という情報が報じられて大規模なパニックとなった。情報を発したのはラスベガスのギャンブラーを名乗る人物で、メキシコ大統領宛に送った手紙がオアハカ州知事に届けられ、これが報じられたことで市民に知れ渡る。オアハカ州を中心に疎開したり家を売ったりする人が増え、ピノテパでは4月23日当日は市民の2割が町から脱出していたという。この事件においてもオアハカ州知事が同市に入ってパーティを開くことで事態収拾を図った。パーティーの最中に偶然M4.2の地震が起こったもののそれ以外に大きな地震はなく、無事に経過した。同市は1968年にM7.1の地震が発生して被害を受けており、市民は神経質に反応したと考察されている。同市長は、1968年の地震被害よりもこの騒ぎによる経済的打撃の方が大きかったと述べている。 1980年-1981年、ペルーにおいて、科学的根拠のある地震予測情報が大きな混乱が発生した。アメリカ鉱山局のブレイディ(B. T. Brady)が行ったもので、室内の岩石破壊実験の結果を実際の地震活動に適用した独自の理論に基づいている。発端は、1977年8月のUSGSの報告書に掲載された「リマ沖の地点でM8.4±0.2の地震が1980年10月頃に起こる」という予測がペルーの新聞に掲載されたことである。後に、1980年9月に前震が始まって1981年7月に本震が起こる、本震は1981年6月28日に起こる、というように予測は絞られていく。1980年8月には、予想地域で実際に前震ともとれるM5級の被害地震が発生する。この理論は国際的にも取り上げられ、1980年10月にブレイディ本人が参加して行われた国際シンポジウムでは多くのマスコミが集まり関心を示したが、専門家は概ね懐疑的だったという。同じく本人が参加して1981年1月にアメリカのNEPECが開いた検討会でも、厳しい批判が浴びせられた。ペルーでは、メディアで地震対策が強く呼びかけられた結果、富裕層では食糧備蓄の動きが広がり、学校では地震が起こるというデマが流れて臨時下校する事態がしばしば発生し、多くの生徒が内陸に転校したという。カヤオ港でも、津波のデマが幾度となく流れて多くの人が避難した。本震の予測日に予定されていた国勢調査は、地震により多くの人が家を離れるであろうことから2週間後に延期された。また個人の保険加入が急増し、ペルーの1981年の入国外国人数は35%減となったほか、海岸の高級住宅街では多くの住宅が安く売られ、損害賠償を求める訴訟も起きた。こうした事態を重く見たアメリカ政府は、在リマのアメリカ大使が両親を呼び寄せて本震の予測日まで滞在させたり、USGSの地震局長がリマに滞在したりして安全性を示した。結局地震は発生せず、ブレイディは自身で予知を取り消すこととなった。 1989年-1990年、アメリカでブラウニング(Iben Browning)が月や太陽の引力を根拠に「1990年12月2日-3日にニューマドリッド断層帯でM6.5-7.5の地震が起きる」という予測を発表し、地元が混乱に陥った。NEPECが予測日の6週間前に反論を発表したが既に遅く、USGSの地震情報センター(NEIC)や地元大学などには電話や取材が殺到し、解説のためのパンフレット作成も行われるなどした。USAトゥデイ紙によると、一連の対応で20万ドルの経費が使われたという。ブラウニングは一定の知名度のある学者であったため、行政官の6割が彼の予知をまじめに受け止めたとも報じられている。力武(2001)は、政府機関が早期に断固として否定しなかったことが混乱の拡大につながったのではないかと指摘している。 日本では、2000年夏頃から週刊誌で地震予知をとりあげた記事が増加する。2001年3月には全国紙の朝日新聞で岡山理科大学の短期予知事業が芸予地震の予測「成功」例とともに掲載され、同年6月の同紙には地震の可能性があるという同事業の報告を受けて鳥取県が警戒本部を設けたことが報じられた。2002年5月には日本経済新聞で、いずれも東海地震の発生が近いとする、複数の研究者による独自の短期予測が掲載された。 2000年、神奈川県内で、会員制の地震予知情報サービスに源を発する、(1923年の)関東大震災級の地震が発生するらしいという情報が流れた。 2002年7月、滋賀県大津市で、「近日中にM6.5の大地震が起こる」という風説が流れ、消防局がこれを受けて内部のみの通達として関連部署に警戒を呼び掛けたが、これが住民に漏れて騒ぎとなった。 ラクイラ地震 : 2009年4月にイタリアで発生したラクイラ地震では、事前に群発地震があったにもかかわらず学識経験者らが間違った情報を発表して大きな被害が出たとして、現地の地震専門家委員会のメンバーだった6人と防災当局職員1人の計7人が過失致死罪で起訴され、ラクイラ市の裁判所は2012年10月23日、被告全員に対して禁錮6年の刑を言い渡した。裁判で検察は、「同委員会の《不正確、不完全で一貫性のない情報》が被害拡大につながった」とした。この事件は当初「地震を予知できなかったため訴追された」と報じられたが誤りである。現地では前年の2008年末から群発地震が起こっていて住民は不安を感じていたが、これに対処するために地震の1週間前に開催された学術会議において、「近く大きな地震が起きる可能性は低い」という安全宣言ともとれる声明が発表され、結果として29人の市民が死亡した。判決では、地震の予知ができなかったことではなく、情報の分析と伝達を慎重に行わず、地震のリスクを正しく伝えなかったことが過失にあたるとされた。 こうした混乱の背景には複数の要因がある。まず、地震予知に関する関心や期待が高いため、地震予知に類する情報が広まりやすいことが挙げられる。科学技術庁の技術予測調査(5年毎)では、1971年の調査開始から継続して地震予知の必要度は最も高い部類に位置している。また、1995年に内閣官房が行った地震に関する世論調査でも、「全ての地震の予知が可能」とする人が4%、「(M7以上の)大地震は予知が可能」とする人が13%など、現実とは裏腹に期待する認識がされている。こうした土壌の中でマスメディアでは、地震予知、特に短期や直前予知に関する話題は、裏付けが不十分であったとしても取り上げられやすく、またセンセーショナルに書き立てられやすいという指摘がある。さらに研究者は、通常の発表は学会や学術誌などの場で行い他の研究者による評価を受けるのが原則で、さらに慎重を期して地震予知連絡会などの専門機関を通じて発表するのが理想的とされる一方、現実としてマスメディアを通して発表する例が少なくなく、本人の想像と異なる内容で報道される場合もある。 また、一般市民や行政の防災担当者の地震予知に関する理解は深くなく、研究者との間には認識に隔たりがあることが指摘されている。現状として、地震予知が制度化されているかどうか、東海地震の警戒情報などをどの機関が発表するか、といった知識が広く定着しているとはいえず、真偽不明の情報を見聞きした時に真偽の判断が適切に行われない可能性がある。こうしたことから、地学教育などを通じて一般市民の防災リテラシーを向上すべきとする専門家もいる。
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