盛曲線問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 08:57 UTC 版)
初当選以来、盛曲線(田沢湖線)敷設に心血を注ぎ、1910年(明治43年)には「盛曲線建設同盟会」を結成し、その実現を政府議会に請願させた。再三計画は頓挫しながらもねばり強く世論を盛り上げ、ついに1919年(大正8年)原内閣で軽便鉄道として両院で可決成立し、翌年着工、1921年(大正10年)7月30日に生保内軽便線として大曲~角館間が開通した。大曲~生保内間が開通したのは1923年(大正12年)8月31日、関東大震災発生の前日のことである。一方、盛岡~橋場間は前年7月に開通し、仙岩峠の掘削に進もうとしたものの、加藤高明内閣の緊縮政策によって工事延期となり、1929年(昭和4年)浜口内閣で工事中止が正式に決定した。盛岡~大曲間を結ぶ田沢湖線が全通したのは建設運動開始から実に60余年後の1966年(昭和41年)10月20日のことである。現在は田沢湖線と平行して秋田新幹線「こまち」の運行路線となっている。
※この「盛曲線問題」の解説は、「榊田清兵衛」の解説の一部です。
「盛曲線問題」を含む「榊田清兵衛」の記事については、「榊田清兵衛」の概要を参照ください。
- 盛曲線問題のページへのリンク