略奪行為
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 07:22 UTC 版)
「ポートロワイヤルの戦い (1690年)」の記事における「略奪行為」の解説
降伏の後何が起こり、その動機が何であったのかは、研究者の間でも議論の対象となっている。というのも、フランスの文献とイギリスの文献とでは、多くの相違点が見られるからだ。降伏の条件は不履行となり、ニューイングランドの民兵は、要塞のみならず町をも荒らし、教会までも冒涜した。住民の財産は略奪され、家畜は殺された。イングランドによれば、フランスの兵と住民とは、条件の再確認が行われている間、要塞にある食糧の備蓄を移動させていた。通常、勝利した側が略奪してしまうからだ。食糧の移動のことを知ったフィップスは、激怒し、合意の無効を宣言し、兵たちに略奪を許した。 フランスの言い分はこれとはわずかに違っている。恐らくは、総督のメンヌヴァルが、フィップスの元に談判で訪れた際に、細々した指示を出しておらず、一部の駐屯兵が酒を飲み始め、そのうえ、メンヌヴァルの政敵の支持者である、フランソワ=マリ・ペロという商人の店に乱入し、商品を持ち去ったというのである。兵たちが、他の商人や、総督府からも同じことをしたのかどうかははっきりしない。「キングズ・ストアズ」だけが降伏に賛成していたため、フィップスの伝記作者であるベーカーとレイドはこう書いている、「合意条件が不履行となったのかどうか、それに関しては疑う余地がある」 メンヌヴァルとプティがこの降伏に関してまとめた文書では、要塞の規模と駐屯兵の人数からして、フィップスが、降伏だけではもの足らず、フランス人兵士の行動を理由に合意破棄に及んだのだと主張している 。しかしながら、フィップスがポートロワイヤルに近づくその前に、ラベルデュールと会っており、町の要塞や駐屯兵に関して、恐らくは信頼のおける評価がなされていたであろうことから、この可能性は低い。 伝記作者たちは、フィップスは恐らく、可能な限りの略奪を「せざるをえなかった」のではないかと仮定している。遠征での略奪品は、費用に充当されると考えられ、フィップスの口頭での降伏合意は、いざ降伏となった時のために、おぜん立てされた逃げ道だったということである。
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