生存説とその否定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 06:55 UTC 版)
生存中から「タンプル塔にいるのは重病の別の子供であり、ルイ17世は逃亡している」と噂が流れており、実際にタンプル塔で勤務する者もヴェルサイユ時代、もしくはテュイルリー宮殿時代の彼を知るものは皆無であり、独房で幽閉されている姿を見た者もごくわずかである。死去の際にルイ17世の世話をしていたローラン、ゴマン、ペルタン医師も同様である。そのため「ルイ17世は逃亡しており、亡くなった少年は別人なのではないか」という噂が立った。そのためブルボン家の財産を目当てにして、自分こそが逃亡した王太子だと名乗り出るものが、ヨーロッパだけではなくアフリカ大陸やセイシェル諸島にまで出没する有様だった。アメリカの作家マーク・トウェインは1885年発表の『ハックルベリー・フィンの冒険』において、偽王太子をからかう一節を記している。 フランス北東部のシャロン=シュル=マルヌ付近で発見されたジャン・マリー・エルヴァゴーという少年は牢番がかごに入れ脱走させたルイ17世だ、という噂が流れ、総裁政府やフェルセン伯爵までもが振り回された。偽王太子の中でもドイツに現れたカール・ヴィルヘルム・ナウンドルフ(英語版)という人物は有名であるが、DNA鑑定の結果、マリー・アントワネットとは何の関係もなかったとされている。 1814年、復古王政期に改葬された際、サン・マルグリット共同墓地で遺体の捜索が行われた。ルイ16世、マリー・アントワネット、エリザベート王女の遺体は他とは別に埋葬されていたために証言から発掘できたが、ルイ17世の遺体については埋葬時を詳しく知る人物はほとんど死去しており、証言する者の記憶も曖昧であったため、掘り起こした少年の遺体がルイ17世のものか確証がなかった。腐敗した遺体は膨張していて、10歳の少年の遺体には見えないという者がいたため、このことも、別人とすり替わったのではないかと憶測される原因となった。 2000年4月、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世のものと思われる心臓のDNA鑑定がなされた。しかし、心臓の損傷が激しいため、鑑定にはかなりの時間を要することとなった(マリー・アントワネットの兄弟姉妹やいとこ、現在のハプスブルク=ロートリンゲン家の人物との比較でDNA鑑定は行われた)。その結果は「心臓はルイ17世のものに間違いない」というもので、2004年6月にようやくルイ17世のものと判定され、フランス王家の墓地があるサン=ドニ大聖堂に心臓が埋葬された。
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