生の意味
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 02:58 UTC 版)
不条理主義によれば、人は生きる意味を求める。この意味の追究には2つの道がある。1つは人生に意味がないという現実的な結論からの考え、もう1つは神のような超越者を仮定した考えである。しかし神のようなものを仮定するとまた疑問が生じる。「神の意志は何か?」キルケゴールによれば神に目的はなく、神を信じることは不条理だとしている。一方でカミュは神を信じることを、人と世界の対立を否定することで哲学的自殺としてる。だがカミュもキルケゴールも、不条理は神の存在への手掛かりではないとし、カミュは「神がいないとは言っていない、それはまだ議論の余地がある」としている。 自殺は生きる意味を失った時の最も速い解決策である。カミュは『シーシュポスの神話』の中で、「自殺に価値はない。もし本当に人生がばかげていても、抗うことがばかげていても。むしろ生きる意味が与えられていないからより良く生きようと思える」としている。 カミュは「諦めなしに不条理を受け入れる方法」を紹介している。「魅力なしに生きられるか」を問い、「意識的反抗」を、不条理を拒絶する世界に明示していくことである。先天的意味や死後のさばきのない世界で、人は完全な自由を得る。この自由によって人は見えないものにすがることも、不条理の英雄として生きることもできる。これより不条理の英雄の持つ、拒絶する意志は情熱とともに生きる彼唯一の能力となるのである。
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