王猛との決戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/31 09:44 UTC 版)
桓温が前燕へ侵攻した時、慕容暐は前秦に虎牢以西の地を割譲する事を条件に援軍を要請していたが、東晋軍が退却するとその土地を惜しむようになり、前秦へ使者を派遣して「(割譲の約束は)使者の失言です。国を保ち家を保つ者として、災害の時に助け合うのは、当然の理でしょう」と告げ、約束を反故にした。 苻堅は激怒して輔国将軍王猛らに歩3万を与えて前燕へ侵攻させ、12月には洛州刺史慕容筑が守る洛陽に攻め込んだ。370年1月、慕容臧が精鋭10万を従えて洛陽救援に向かうも大敗を喫し、戦意喪失した慕容筑は洛陽ごと降伏した。 5月、苻堅は王猛を総大将に任じると、楊安・張蚝・鄧羌ら10将と歩兵騎兵合わせて6万の兵を与えて、前燕討伐に向かわせた。8月、前秦襲来の報が届くと、慕容暐の命により慕容評は中外の精鋭30万を率いて迎撃に向かった。王猛は壷関を陥落させて上党郡太守慕容越を捕らえ、9月には晋陽を陥落させて前燕の并州刺史慕容荘を捕らえた。慕容評は前秦軍の勢いに恐れを抱き、潞川に軍を留めた。 10月、王猛が潞川へと進んで慕容評軍と対峙すると、慕容評は王猛軍が敵中に深入りしている事から持久戦に持ち込もうとした。だが、王猛は密かに夜襲を計画すると、游撃将軍郭慶に精鋭五千を与えて夜闇に乗じて間道から敵陣営の背後に回らせ、山の傍から火を放った。この火計により慕容評軍の輜重は焼き尽くされ、この炎は鄴からも見える程凄まじかったと言う。 慕容暐はこれに驚愕し、侍中蘭伊を派遣して慕容評へ「王(慕容評)は高祖(慕容廆)の子であり、宗廟社稷を憂えるべきであるに、将兵を慰撫せずに、なぜに材木や水を独占してその利益をかき集めているのか!官庫に山積する財宝を朕は王と共有しておるのに、なぜに貧しさを憂えているのか!もし賊が進撃して国を滅ぼしてしまえば、王はかき集めた銭帛をどこに収容するというのか!かき集めた銭帛は全て兵卒へ分け与え、これを督して速やかに戦闘するように!」と詰ったので、慕容評は大いに恐れ、王猛へ使者を送って決戦を告げた。 王猛は渭原に布陣すると、鄧羌・張蚝・徐成らを慕容評の陣営へ突撃させ、慕容評の陣営を蹂躙して数えきれない程の将兵を殺傷した。これにより日中には慕容評軍は潰滅し、捕虜や戦死した兵はゆうに5万を超えた。王猛はこの勝利に乗じてさらに追撃を掛けると、捕虜や戦死者の数は10万に上った。大敗を喫した慕容評は単騎で鄴まで逃げ戻った。王猛はそのまま軍を進めると、遂に鄴を包囲した。
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