かのう‐まさのぶ【狩野正信】
狩野正信
狩野正信
狩野正信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 05:32 UTC 版)
狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した狩野正信(1434? - 1530)である。彼は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。正信の出自は上総伊北荘大野(現千葉県いすみ市大野)であり、狩野宗茂(狩野氏の祖・工藤茂光の子)の子孫とみられる。江戸時代作成の家譜・画伝類では駿河今川氏の家臣・狩野出羽二郎景信という人物を正信の父としている。20世紀後半以降の研究の進展により、狩野家は下野国足利(栃木県足利市)の足利長尾氏と何らかの関係があったものと推定されており、足利市の長林寺に残る墨画の『観瀑図』は正信の比較的初期の作品と考えられている。正信の画業として記録に残る最初の事例は、応仁の乱(1467 - 1477)の直前の寛正4年(1463年)、30歳の時に京都の雲頂院(相国寺塔頭)に観音と羅漢図の壁画を制作したというもので(『蔭涼軒日録』所載)、この時点で正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。正信が壁画を描いた雲頂院の本寺である相国寺は室町幕府3代将軍足利義満創建の禅寺で、如拙、周文、雪舟らの画僧を輩出した室町画壇の中心的存在であり、この当時は周文の弟子にあたる画僧・宗湛(小栗宗湛、1413 - 1481)が御用絵師として活動していた。狩野正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ室町幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、室町幕府8代将軍・足利義政に重用されていたことは諸記録から明らかである。10年にわたった応仁の乱(1467 - 1477)終結の数年後の文明13年(1481年)、室町幕府の御用絵師であった宗湛が死去しており、狩野正信は、宗湛の跡を継いで幕府の御用絵師に任命されたものと思われる。これ以後は、宮廷の絵所預(えどころあずかり)の職にあった大和絵系の土佐光信と、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。 文明14年(1482年)、前将軍・足利義政は、東山殿(銀閣寺の前身)の造営を始め、正信がその障壁画を担当することとなった。延徳2年(1490年)の義政の没後、正信は当時政治の実権を握っていた細川氏に仕えるようになる。正信はこのように、時の権力者との結び付きを深めつつ画壇での地位を固め、後の狩野派隆盛の基礎を築いた。記録によれば、正信は障壁画、仏画を含め、多様な形式・題材の作品を手掛けたことが知られるが、障壁画はことごとく失われ、現存する確実な作品は掛軸などの小画面に限られている。その画風は、同時代人の土佐光信の伝統的な大和絵風とは対照的に、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」であった。正信は97歳の長寿を保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男の元信に画業を継がせて引退生活を送っていた模様である。
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16世紀の美術家 | ルーラント・サーフェリー 狩野松栄 狩野正信 フラ・バルトロメオ 曽鯨 |
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