片倉による経営更生
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1927年の長野県大霜害を発端に、翌年以降の金融恐慌と世界恐慌が追い打ちをかけた県内の「農村恐慌」で、製糸業界をはじめとする諏訪郡内の電力需要は落ち込み、諏訪電気は大きな打撃を受けた。放漫経営に伴う社内の内紛で技術者が大量退社したほか、諸物価の中でもとりわけ高いと見なされた電気料の値下げを求める諏訪電気料値下げ期成同盟会が1930年に発足し、各地の青年団を中心に諏訪郡内の需要者が支部を結成して値下げを要求。諏訪電気は対応に追われ経営混乱に陥った。 社長の尾澤は1929年、親戚で片倉製糸紡績社長の片倉脩一(のち三代目片倉兼太郞)に諏訪電気の救済を頼み、片倉が社長に就任した。子会社・片倉肥料の硫酸アンモニウム買い入れ先であった昭和肥料(のち昭和電工)社長で新興財閥森コンツェルンを率いた森矗昶や昭和肥料取締役の高橋保は、東信電気で発電・配電事業を手がけており、以前から片倉と関係があった。片倉は森のバックアップを受け、高橋を諏訪電気の取締役に招いた上で安田銀行と日本興業銀行から融資を受けて経営の立て直しに取り組んだ。値下げ期成同盟会に対しては上諏訪町助役の小松直治らに調停を依頼する一方、裏で同盟切り崩しの工作活動を展開し、1932年に終結させた。 一方、北安曇郡大町(現・大町市)に本社を置く安曇電気株式会社も1931年、片倉に救済を申し入れ、片倉は安曇電気の取締役に就任した。片倉は大町に昭和肥料系列の昭和アルミニウム工業所(現・昭和電工大町事業所)を誘致。昭和肥料が諏訪電気から譲受した塩尻工場で新たに製造を始めたアルミナを原料に安曇電気の電力でアルミニウムを生産する体制を作り、森コンツェルンとの密接な関係のもと、需要の落ち込みで安曇電気が直面していた膨大な余剰電力の需要開拓を図った。 諏訪電気と安曇電気の配電区域に挟まれた東筑摩郡の中央電気株式会社(1922年、松本電灯と越後電気が合併して改称)も、片倉の伯父にあたる今井五介が社長を務めており、1936年には片倉も取締役に就任した。
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