無残な大井川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:32 UTC 版)
1960年代までに大井川水系は大井川本川上流より田代・畑薙第一・畑薙第二・井川・奥泉・大井川・塩郷といったダム・小堰堤が連なり、支流には千頭・大間・寸又川(寸又川)、笹間川(笹間川)、境川(境川)の各ダムが建設され、これらのダムや小堰堤より発電用の水が一斉に取水される。さらに下流では大井川用水に利用するため川口発電所で放水された水が再度取水されて各所に供給される。こうした多数の箇所からの取水によってかつて豊富な水量を誇った大井川の水は山中を通る送水管に大部分の水が流れ、大井川に直接放流される水は極端に少なくなった。このため次第に弊害が現れた。 問題が表面化したのは1961年の塩郷ダム完成からである。塩郷ダムで大井川の流水がことごとく取水されることにより、ダムより下流の大井川は全く流水が途絶した。この付近は「鵜山の七曲り」と呼ばれた景勝地であり、水量が豊富な際は豪快な風景が楽しめたが塩郷ダム建設以後は下流20 km区間が全くの無水区間となって、漁業を始めとする河川生態系に深刻なダメージを与えた。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と謳われ、往時は平均水深76 cmあったといわれる大井川の面影は全く無くなり、あるのは延々と続く「賽の河原」であった。川原からは風が吹くと砂が舞い上がって家の窓から吹き込み、人々はこれを「川原砂漠」と呼んだ。また、生態系の変化により茶の害虫が増加し、砂が上流から運ばれなくなったことによる海岸線の侵食などの被害が生じた。この惨状に流域住民は「大井川の清流を元に戻せ」と声高に訴えるようになった。大井川の「水返せ運動」の始まりである。 1975年(昭和50年)大井川の発電用水利権が期限更新となった。この時河川管理者である静岡県は塩郷ダムを管理する中部電力、田代ダムを管理する東京電力に対し、大井川の無水区間を解消するために毎秒2トンの水利権を返還するように両電力会社に要求、交渉を行った。だが中部電力と東京電力の両者は静岡県の水利権返還要求を拒絶した。電力会社の立場からすれば、水力発電所における水はまさに生命線であり、水量を減少させることは発電能力を減衰させることに繋がり、それは単純に営業利益の減少に直結するため、当然承諾できる要求ではなかったのである。
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