減反(げんたん)
コメの供給量を調整するため、国や地方自治体が農家に対しコメの作付け面積を制限すること。生産調整ともいう。2004年度から新制度に移行する。
これまで過剰気味だったコメの生産は、在庫量の増大と価格の下落をもたらした。食生活の多様化が主食としてのコメの消費を減らし、農家の経営基盤にも影響している。そのため、国の政策として減反が実施され、農家の利益を保護すると同時に、備蓄制度によってコメの安定供給を目指してきた。
農林水産省は2002年12月、コメの生産と流通に市場原理を導入する「米政策改革大綱」を策定した。2008年度までに農協など農業団体を主体にした生産調整に移行させる計画だ。
大綱によると、2004年度からコメ作りの目標を減反面積から生産数量に転換する。これは、コメを作らない面積を目標とする従来の政策から生産数量を調整する方式に変え、市場の需要に見合うだけのコメを安定的に供給していく狙いがある。
(2003.08.11更新)
減反政策
減反政策(げんたんせいさく)とは、1971年から2017年までの日本における米農家保護を目的とし、生産過剰状態のコメ生産量を消費量に合わせて米価を維持する農業政策である[1][2]。昭和37年(1962年)に日本の「1人当たりの年間米消費量」はピークになり、以降から右肩下がりが続いている[3]。背景には機械化による生産量増加・食の欧米化で「米離れ」が加速したことにある。日本で統計的に生産量が消費量を上回るようになった1970年には、農家からの買取価格より市場への売値の方が安くなるという事態が起こるようになった[2]。お米が余ることで価格が下落事態を抑止するため、 日本政府は米価を維持し、継続コメ農家を守るするために米の生産量を調整してきた。具体的な方法として、米作農家に作付面積の削減を対価に金銭を支給した[3][2]。日本国内のコメ消費量はピークの昭和40年(1965年)頃と比較すると、2023年の「1人当たりの年間米消費量」は約半分の50.9kg(1人/年間)まで減少している[3]。コメ農家らは守られたものの、高コストの零細農家の市場退出(田の集約化・大規模農家化)を抑止してしまっていたり[4]、「生産量を消費量が上回った年度」には国内米限定だと米不足が発生する(緊急輸入のあった冷害時の1993年)。1970年または1971年から実質的に開始され、2018年度(平成30年度)に廃止となり[1][2]、45の道府県のうち14道県は増産方針を打ち出した[2]。
経緯
基本的に日本における「減反政策」とは、生産量が消費量を上回るようになったことで開始された、1970-1971年以降のモノを意味する[1][2][3][4]。
戦前から戦中
日本人の米に対する思い入れは強く、米は最も重要な食べ物(主食)とされているが、戦前の日本における米の10アール当りの収量は、300キログラム前後と現在の約半分であり、しばしば凶作に見舞われていた。1933年(昭和8年)には作況指数120(平年の120%)を記録し、米の在庫が増加した際には「減反」方針が打ち出された事がある。しかし、翌年東北地方において、冷害から凶作・飢饉が発生するなどし、政策として実施されなかった。そもそも、階級や貧富、地域などによって大きな違いがあり、雑穀や芋などを常食していた人たちも多く、実際には大半の日本人が米を主食とすることはできなかった[5]。
また、戦前は米も通常の物資と同じく市場原理に基づき取引されていたが、1940年(昭和15年)頃には戦時体制へ突入し米不足が深刻化したため、食糧管理制度に基づく配給制となり、政府の管理下に置かれた。
戦後から1969年
戦後の食糧難は深刻を極め、1945年(昭和20年)10月の東京・上野駅での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。だが、米は引き続き食糧管理制度に基づく政府の固定価格での買い上げだったため、闇市でヤミ米が横行、ヤミ米を食べることを拒否し法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起こっている。
米ばかりでなく、全ての食料が不足していた時代であり、占領軍の主体となったアメリカ合衆国により、1946年(昭和21年)からララ物資の援助があり、1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)まではガリオア・エロア資金として総額約20億ドルの経済援助が行われ、その60%以上が食糧輸入に充てられたものの、食糧不足の解決は難しく配給の遅配が相次ぐ事態となっていた[6]。食料を生産していない都市部では、欠食児童も多く、学校給食には大量に輸入されたメリケン粉(小麦粉)が充てられ、アメリカの占領政策の一環で、学校給食は米飯ではなく、メリケン粉を使ったパンと脱脂粉乳が主体であったため、日本人の食事の欧風化が進行した。
マッカーサーは「我が輩は米と魚と野菜の貧しい日本人の食卓を、パンと肉とミルクの豊かな食卓に変えるためにやってきた」と豪語し、GHQ公衆衛生福祉局長のサムス准将は、「太平洋戦争はパン食民族と米食民族との対決であったが、結論はパン食民族が優秀だということだった」と言い放っている[7]。1952年(昭和27年)には、栄養改善法が施行され、厚生省がはじめた栄養改善運動では米偏重の是正が叫ばれ、欧米風の食事を理想としたことも手伝って、主食とされてきた米は遠ざけられ、戦前まで1人1石(160キログラム)といわれていた米の年間消費量は、1962年(昭和37年)に戦後最高の118.3キログラムに達したのをピークに、以後年々減少に向かった[6]。
1970年の生産過剰以降
新谷尚紀によると、米食悲願民族といわれる日本人にとって、米を実際の主食とすることは有史以来の宿願であったが[5]、昭和40年代(1965年-1974年)初頭には、肥料の投入や農業機械や農薬の導入、品種改良によって、生産技術が向上したこともあり、ようやく米の自給が実現でき名実ともに主食となった。しかし、その時既にアメリカ合衆国の小麦戦略は見事に成功をおさめ、学校のパン給食や栄養改善運動などによって、日本人の食事の欧風化が進行し、米離れに拍車がかかっていた[8]。
1970年(昭和45年)には実際に消費量を生産量が上回り、米の余剰が発生した。食糧管理制度は経済状態の悪い家庭にも配慮し、買取価格よりも売渡価格が安い逆ザヤ制度であったことから、歳入が不足し赤字が拡大した。国内各地で生産拡大へ向けての基盤整備事業が行われている最中、日本国政府は、新規の開田禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした本格的な生産調整を開始した。
減反については一部の農家から猛反発を受ける一方、県によっては農家から思いのほか希望者が集まる例も見られた。例として青森県東北町、六ケ所村、横浜町では割当面積の数倍の減反希望者が現れた[9]。八郎潟の干拓事業によって誕生した秋田県南秋田郡大潟村の入植は、1967年(昭和42年)に始まったばかりであったが、この年の入植を最後とし、以後の入植者の募集は取り消された。生産拡大のための基盤整備事業が行われている最中の生産調整の導入であり、大潟村の既入植者が生産可能面積の取り扱いを巡って長年にわたり国と対立するなど、稲作農家の意欲低下、経営の悪化につながるとして強い反発が各方面であった。制度的には「農家の自主的な取組み」という立場を取っているが、転作地には麦、豆、牧草、園芸作物等の作付けを転作奨励金という補助金で推進する一方で、稲作に関する土地改良事業などの一般的な補助金には、配分された転作面積の達成を対象要件とするなど、実質的に義務化された制度である。また、耕作そのものを放棄することは農地の地力低下、荒廃につながることから、転作面積とはみなされない。生産調整の導入以降も、生産拡大へ向けての基盤整備事業の効果が現れはじめたことや、生産技術が向上したことにより単位面積あたりの生産量は増加し、また農家によっては、米を引き続き栽培するためにやむを得ず転作を受け入れるという立場をとる者もいたが、多くは積極的に転作に取り組むことによって農業構造の転換を図ろうとした。
水稲の作付け面積は、1969年(昭和44年)の 317万ヘクタールをピークに、1975年(昭和50年)には 272万ヘクタール、1985年(昭和60年)には 232万ヘクタールに減少、生産量も 1967年(昭和42年)の 1426万トンをピークに、1975年(昭和50年)には 1309万トン、1985年(昭和60年)には 1161万トンに減少した[10]。
ピーク消費量の半分化記録・食の多様化
さらに、1985年(昭和60年)と1994年(平成6年)のそれぞれ凶作により米の緊急輸入があった翌年を除いては、一貫して生産調整の強化を続け、1995年(平成7年)には作付け面積211万ヘクタール、生産量1072万トンに、2000年(平成12年)以降は、作付け面積170万ヘクタール、生産量900万トン程度を推移し、作付け面積は半減、生産量は60%程度になった[10]。一方で、米の消費量減少には歯止めがかからず、日本人1人あたりの年間消費量は、1990年代(平成2年-平成11年)後半にはひと頃の半分以下の60キログラム台に落ち込んだ。家計支出に占める米類の支払いの割合は、10%強だったものが1.1 - 1.3%と10分の1になり、米の地位低下がはなはだしい[11]。
生産調整が強化され続ける一方で、転作奨励金に向けられる予算額は減少の一途をたどり、「転作奨励」という手法の限界感から、休耕田や耕作放棄の問題が顕在化し始めた。こうして弥生時代(縄文時代晩期とも)以来、長い時間をかけて開発され、維持されてきた水田の景観は、荒れるに任されるようになった[6]。
このような状況の中、食糧管理法が廃止されて食糧法が施行され、制度が下記の様に大幅に変更された。
- 日本国政府の米買入れ目的は、価格維持から備蓄に移行。これに伴い、買入れ数量は大幅に削減。
- 米の価格は、原則市場取引により形成。
- 生産数量は、原則生産者(実際は農業協同組合を中心とする生産者団体)が自主的に決定。この際、転作する面積を配分する方法(ネガ配分)から、生産できる数量(生産目標数量)を配分する方法に移行(農家段階では、生産目標数量は作付目標面積に換算されて配分(ポジ配分)。ポジ配分は2004年から本格実施)。
2007年に内橋克人が減反政策の弊害として、日本の原風景が失われること、自然環境が変化し生態系に影響を与えること、伝統ある農業文化が失われると述べた[12]。補助金や関税によって市場価格から遊離した農業生産を奨励する保護政策の裏面として減反政策が存在し、これによる日本産コメの高値維持および国税の浪費などが、日本国民の家計に圧迫を加えていると主張する者がいた。しかし、実際には1952年(昭和27年)に施行された栄養改善法以降に厚生省が栄養改善運動を始め、食生活のコメ偏重是正から欧米風の食事スタイルが普及し米の消費量は年々減少してきていた。米の自給が実現できた昭和40年代(1965年-1974年)には、家計支出に占める米類の支払いの割合は10%強だったものが、コメ消費量の激減で1.1 - 1.3%と10分の1以下と家計の僅かしか占めなくなっている[11]。 2013年(平成25年)11月23日、第2次安倍内閣は、2018年(平成30年)で減反政策は終了すると発表した。
脚注
- ^ a b c “減反政策とは? 廃止から4年、米農家の現状と今後の展望を考える”. minorasu(ミノラス) - 農業経営の課題を解決するメディア (2022年3月22日). 2025年3月14日閲覧。
- ^ a b c d e f AGRI, SMART. “「減反政策」の廃止で、日本の稲作はどう変わったのか | 農業とITの未来メディア「SMART AGRI(スマートアグリ)」”. SMART AGRI(スマートアグリ). 2025年3月14日閲覧。
- ^ a b c d “「令和の米騒動」~米不足の理由と背景~ – 五ツ星お米マイスターの活動日誌”. 2025年3月14日閲覧。
- ^ a b “RIETI - 減反政策を見直せばコメ農家に未来が開かれる”. www.rieti.go.jp. 2025年3月14日閲覧。
- ^ a b 新谷 尚紀 他 『民俗小事典 食』 吉川弘文館、2013年、ISBN 978-4-642-08087-3 、26頁
- ^ a b c 原田 信男 『和食と日本文化』 小学館、2005年、ISBN 4-09-387609-6、201-208頁
- ^ 安達 巌 『日本型食生活の歴史』 新泉社、2004年、ISBN 4-7877-0404-4、216-217頁
- ^ 「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活
- ^ 減反 予想外の人気 希望が六倍の町も『朝日新聞』昭和45年(1970年)3月9日、12版、15面
- ^ a b 『日本の100年 改訂第6版』 矢野恒太記念会、2013年、ISBN 978-4-87549-446-1 、186頁
- ^ a b 藤岡 幹恭 他 『農業と食料のしくみ』 日本実業出版社、2007年、ISBN 978-4-534-04286-6 、126頁
- ^ 2007-10-15 放映のNHK特集番組「危機に立つコメ産地」
参考図書
- 『アメリカ小麦戦略―日本侵攻』(NHK農林資産番組班 高嶋光雪著 1979年 家の光協会)
- 「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活(鈴木猛夫著 2003年 藤原書店) ISBN 4894343231
関連項目
- 1954年農産物貿易促進援助法(PL480、余剰農産物処理法)
- 緊急需給調整- 大豊作時で市場における農作物の卸売価格の著しい下落時に、一時的出荷見合わせや一定量破棄で価格下落の抑制協力を求める施策
- 産業構造 -産業構造の転換
- 一村一品運動-1980年から大分県内の全市町村で始められた地域振興のプロジェクト
- 農地法
- 食糧管理法
- 統制経済
- 保護貿易
- 自由貿易 - 環太平洋パートナーシップ協定 (TPP)/欧州連合
- 米- 穀物
- 反-尺貫法における面積の単位
外部リンク
- 作物統計 収穫量累年統計(水稲の年次別面積、収穫量)
- 大潟村あきたこまち生産者協会(大潟村入植の沿革)
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