清末
名字 | 読み方 |
清末 | きうすえ |
清末
姓 | 読み方 |
---|---|
清末 | きよすえ |
清末 | きよまつ |
清末
清末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:47 UTC 版)
1903年(光緒29年)、唐継尭は清朝の秀才に合格する。翌年、日本に留学して、東京振武学校(士官学校の予備校)に学ぶ。学期間で孫文の中国同盟会に参加し、また、革命派学生による雑誌『雲南』の編集にも関わった。光緒32年(1906年)夏に東京振武学校を卒業し、翌1907年6月に陸軍士官学校に入学した。 1909年(宣統元年)に帰国した後に、雲貴督練公所参謀処提調、雲南陸軍講武堂教官を経て、新建陸軍(新軍)に入隊した。新軍第19鎮正参謀官、第74標第1営管帯(営長)、雲南陸軍講武堂監督を歴任している。1911年(宣統3年)、彼は蔡鍔を招聘した上で、その指揮の下、昆明で武昌起義(辛亥革命)に呼応、蜂起した(昆明重九起義)。新たに組織された大漢雲南軍政府の下で、唐継尭は軍政部・参謀部両部の次長を兼任し、さらに雲南陸軍講武堂総弁となる。
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清末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 06:03 UTC 版)
1895年7月30日(光緒21年6月9日)、江蘇省常州府金匱県(現在の無錫市新呉区)の七房橋村に生まれる。出生時の名は「恩鑅」。 7歳のとき私塾に入る。10歳のとき、無錫の名士が開設した新式小学校に入る。13歳のとき、常州府中学堂(中国語版)に入る。同校の教員に呂思勉(中国語版)が、後輩に劉天華がいた。16歳のとき、譚嗣同の『仁学』に感化されて辮髪を切る。1911年初頭、中学4年生のとき、修身科を廃止してギリシア語科を開設する嘆願を主導するが失敗し、南京の鐘英中学に転校する。同年末、辛亥革命により休校になったため退学する。
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