士官
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士官(しかん、commissioned officer)は、各国軍隊などの組織の士官学校などにおいて、用兵などの初級士官教育を受けた軍人で、階級が少尉以上の武官を呼ぶ。将校ともいう。なお、1868年の「officer」の日本語訳は「士官」であったが、1887年ごろから「将校」に変わった。下士官の上となる。自衛隊では、3尉(3等陸尉・3等海尉・3等空尉)以上の幹部自衛官がこれに相当する。また、船舶用語として士官を用いる場合は、船長、機関長、航海士などの高級船員に対しても使われる。中国人民解放軍(中華人民共和国)や中華民国国軍(台湾)では士官(幹部自衛官クラス)は軍官と呼ばれ、「士官」は下士官(曹クラス)を意味する[1]。
- 1 士官とは
- 2 士官の概要
海軍将校
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「那珂」、駆逐隊、「三日月」砲術長を経て、「呂65」乗組みとなったのが潜水艦歴の始まりであった。1931年(昭和6年)、大尉に進級し、水雷学校高等科学生を履修する。兵科将校は通常であれば術科学校の高等科で士官教育を終了するが、日下は「伊57」航海長を経て潜水艦水雷長養成課程である潜水学校乙種に進んだ。潜水艦水雷長は、先任将校として潜水艦長を補佐し潜航作業を指揮する配置である。日下は「伊24」、「伊68」、「伊2」の三艦で水雷長を歴任し、内野信二などを補佐した。1939年(昭和14年)3月、少佐に進級していた日下は機雷敷設潜水艦である「伊121」潜水艦長に補され、次いで潜水学校甲種学生となる。この課程は潜水艦長を養成するものであり、ほぼ半年の期間で戦術、航海、兵器など、潜水艦長として必要な学識、力量を身につけるのである。卒業後、「呂58」潜水艦長を経てL四型二等潜水艦である「呂63」の艦長として太平洋戦争の開戦を迎えた。
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海軍将校
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卒業後、「矢矧」乗組となり、第一次大戦対独戦に従軍。当時独領であった南洋群島の占領作戦に参加した。その後「伊吹」、「扶桑」乗組を経て海軍砲術学校及び海軍水雷学校の普通科学生を卒業。「白雲」乗組となるが慢性気管支炎に侵され、一時は重態に陥るなど二年間療養生活を送る。全治後舞鶴鎮守府付として復帰。海大選科学生として東京外国語学校で仏語を修める。「五十鈴」分隊長となり関東大震災救護任務に従事した後、呉海兵団分隊長兼教官、呉鎮守府副官兼参謀、「伊勢」分隊長を経て海大甲種26期を卒業した。有馬正文、中澤佑、松田千秋、黒島亀人らが同期である。 大尉時代には『忠君論』を著し、佐藤鉄太郎に講評を願っている。佐藤は「理性の深刻味あるも、情操の温味を感ぜざる底の欠点あり」と述べ、義務感が強すぎることに疑問を表明したが、講評の最後は「近頃稀に見るの論文なり」と結ばれている。海大時代は欠席が多く教官・寺本武治の世話で参禅していた。海大同期の大西新蔵によれば草刈に2時間に渡り叱られたことがあり、実戦部隊の指揮官には不向きとしている。 軍令部参謀(3班5課)に補され対仏班主任となり、国際水路会議に参加するためモナコへ出張した。政府代表である水路部長・米村末喜は兵学校、練習艦隊、海大と三度に渡る恩師であった。草刈は航海の専門家ではなかったが、往路の船内で会議の準備に没頭し、出席した分科会の委員長は草刈を評価する旨を米村に語ったという。
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