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永享の乱~享徳の乱・鎌倉府崩壊とは? わかりやすく解説

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永享の乱~享徳の乱・鎌倉府崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 05:49 UTC 版)

鎌倉府」の記事における「永享の乱~享徳の乱・鎌倉府崩壊」の解説

応永35年1428年正月将軍足利義持後継者不在のまま亡くなり正長2年1429年3月くじ引き選ばれ足利義教新たな将軍となる鎌倉公方足利持氏は、自らが将軍になる野心持っていたため、京都幕府義教との関係はさらに悪化した永享10年1438年8月、持氏は京都との調停役となっていた関東管領上杉憲実討伐始めた永享の乱 )。しかし幕府軍事介入すると、持氏から離反するものが相次ぎ、憲実討伐失敗して降伏。さらに義教は憲実の助命嘆願無視し永享11年1439年2月、持氏と嫡子義久攻め滅ぼした。 このとき持氏に対して厳し姿勢示した義教も、鎌倉府そのもの否定しなかった。新たな鎌倉公方として、自らの子息を鎌倉下向させ、鎌倉府再興させようとする。この構想は、嘉吉元年1441年6月義教暗殺嘉吉の乱)により白紙化されるが、文安4年1447年3月鎌倉府は持氏の遺児足利成氏のもとで再興された。永享の乱その後結城合戦経て上杉氏伝統的豪族層・国人層との対立顕在化すると、両者ともにそれぞれの思惑から新たな鎌倉公方を必要としたのである。しかし、対立解消されないまま、成氏は幕府および関東管領上杉氏対立し享徳3年1454年12月始まった享徳の乱にて、鎌倉離れ下総古河に移座した崩壊した鎌倉府古河公方古河府継承される

※この「永享の乱~享徳の乱・鎌倉府崩壊」の解説は、「鎌倉府」の解説の一部です。
「永享の乱~享徳の乱・鎌倉府崩壊」を含む「鎌倉府」の記事については、「鎌倉府」の概要を参照ください。

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