残虐行為
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「クルックドビレットの戦い」の記事における「残虐行為」の解説
戦闘の直後に、イギリス軍とロイヤリスト部隊が捕虜を殺害し、負傷兵に火を点けたなど残虐行為を犯したという報告が出てきた。5月7日、ワシントンはウィリアム・マクスウェル准将に、ハウ将軍に報告できるようにこれらの噂の追及を命じた。バックス郡の治安判事アンドリュー・ロングは戦闘を目撃したワッツ大佐と地元住民4人の宣誓供述書を取った。地元住民はサミュエル・ヘンリー、ウィリアム・ステイナー、トマス・クレイブン、サミュエル・アーウィンの4人だった。ワッツは「およそ人間的でない野蛮な方法で取り扱われた遺体を見つけた」と報告し、「文明化された国で行使された中でも最も野蛮な行為、そればかりではない、それに匹敵できないような残酷さの最大級の行使において野蛮の極致である」と語っていた。 レイシーがジョン・アームストロング少将に提出した報告では、さらにその残虐行為に触れており、「イギリス軍の無慈悲な手中に落ちた不幸な者達の中には残酷に人間性もなく虐殺された者がいた。ある者はソバの藁とともに火を点けられ、ある者はその着衣の背中を焼かれた。生存者のある者は、敵が負傷者がまだ生きているのに火を点け、その者は火を消そうとしたが、苦悶の中で弱り衰弱していたと言っている。私はソバの藁の中に横たわっている者を見た。彼らは大変物悲しげな様子をしていた。私が見た他の者は、銃弾で負傷した後、短剣や銃剣で1ダース近くの傷を受けた。現場に人々がいたので、これらの残酷さを証明するために多くの証人を見つけることができる。目撃者として来てくれる人が少なからずいる。」としていた。
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残虐行為
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「バートリ・エルジェーベト」の記事における「残虐行為」の解説
オスマン帝国との戦争により夫が留守がちの中、エルジェーベトは性別を問わず多くの愛人を持ち、贅を尽くすことと自らの美貌を保つことに執着したというが、夫婦仲は良かった。1604年に夫が亡くなると、夫から贈与されて彼女自身の所有となっていたチェイテ城(英語版、ハンガリー語版、スロバキア語版)(現在はスロバキア領)に居を移した。 召使に対する残虐行為は、夫の存命中から始まっていた(あるいは召使に対する折檻は夫から教えられた)と考えられているが、夫と死別後に一層エスカレートしたようである。当初は領内の農奴の娘を誘拐したりして惨殺していたが、やがて下級貴族の娘を「礼儀作法を習わせる」と誘い出し、残虐行為は貴族の娘にも及ぶようになった。残虐行為は惨く、歳若い娘を「鉄の処女」で殺しその血を浴びたり、拷問器具で指を切断し苦痛な表情を見て笑ったり、使用人に命じ娘の皮膚を切り裂いたり、性器や膣を取り出し、それを見て興奮しだすなど、変態性欲者だったという。同様の行為を行った人物として18世紀のロシアの貴族ダリヤ・サルトゥイコヴァの名が挙げられる。 地元のルター派の牧師の告発により、役人達は薄々事態に気付いていたが、バートリ家の名誉を考慮し、内密にしていたようである。しかし貴族の娘に被害が及ぶようになると、ハンガリー王家(ハプスブルク家)でもこの事件が噂され始め、1610年に監禁されていた娘の1人が脱走したことにより、ついに捜査が行われることになった。城に入った役人達は、多くの残虐行為が行われた死体と衰弱した若干の生存者を発見した。また、城のあちこちに多くの死体が埋められていることも後に明らかになった。
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