歴史を変えた復讐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:50 UTC 版)
巫臣の晋での評判を聞いた当時の楚の公族である子反と子重(中国語版)(公子嬰斉、荘王の弟)は、「晋へ賄賂を贈って巫臣を用いられないようにしましょう」と共王に献策したが、「無能であれば賄賂の有りなしに関わらず用いられず、有能であれば賄賂の有り無なに関わらず用いられる。無用である」と退けられた。しかし、狙っていた夏姫を巫臣に横取りされたと怒っていた子反は子重と共に、楚に残っていた屈氏一族を殺害した。 これを知った巫臣は、子反と子重へ「あなたたちは邪悪な心で王に仕え、数多くの無実の人たちを殺害した。私はあなたたちを奔走させて死ぬようにさせる」との復讐の書簡を送った。その後、晋公(景公)に呉と国交を結ぶ事を進め、自ら呉に出向いた。これにより晋は中華(この場合は周王朝と言う意味)の諸侯で初めて呉との国交を結んだ。巫臣は用兵や戦車を御する技術を伝え、子の屈狐庸を外交官として呉に仕えさせ、晋に帰国した。この事が後に呉国が強国になった一因となった。 そして子反と子重は、巫臣の目論見通り晋や呉との両面戦争に奔走させられ、その後子反は紀元前575年の鄢陵の戦いでの失態を子重に責められて自害し、子重もまた、呉との敗戦による心労で紀元前570年に死去し、巫臣の復讐は果たされた。呉が強国となる事で楚にとっての脅威となり、遂には楚が呉によって滅亡寸前に追い込まれるなど、歴史を大きく変える復讐の策だったとも言える。 その後、巫臣と夏姫との間に生まれた娘が、賢臣として名高い晋の公族の羊舌肸(叔向)の妻となった。
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