武蔵国造とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

武蔵国造とは? わかりやすく解説

无邪志国造

(武蔵国造 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/08 18:32 UTC 版)

无邪志国造(むざしのくにのみやつこ、むざしこくぞう)は、のちに武蔵国東部となる地域(无邪志国)を支配した国造である。




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武蔵国造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 02:23 UTC 版)

武蔵国造の乱」の記事における「武蔵国造」の解説

記事見える武蔵国造の「武蔵」は後世現れる表記で、乱の当時にはまだ存在していない。これは、乱の記事『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に記されたためである。のちの武蔵国无邪志国造知々夫国造領域統合し1つの国になったとされており(ただし異説もある)、7世紀頃までの武蔵国に関しては「无射志(むざし)」と表記されていた記録も見つかっている。 国造列記した先代旧事本紀』「国造本紀」にも「武蔵国造」という名での記載はなく、无邪志国造と胸国造記載されている。无邪志と胸刺は完全に同一のもので読みも同じ「むさし」であり、文字表記違いにすぎないというのが定説であるが、地域分ける説もある。例え竹内健現在の東京都神奈川県横浜市を含む南部胸刺(かつての小杵勢力圏)、秩父地域を除く現在の埼玉県にあたる北部无邪志(かつての笠原使主勢力圏)であり、武蔵国宝亀2年771年)に東海道移管される前に東山道属していたのではなく北部(旧・无邪志国)が東山道南部(旧・胸刺国)が東海道と、南北分かれて別々の道に属していたのだという説を唱えている。しかし小杵使主とは従兄弟であって分岐した時期はそう古くなく、无邪志国造初代として挙げられる多毛比命と胸国造初代として挙げられる伊狭知直は親子関係とする系図もある。

※この「武蔵国造」の解説は、「武蔵国造の乱」の解説の一部です。
「武蔵国造」を含む「武蔵国造の乱」の記事については、「武蔵国造の乱」の概要を参照ください。

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