无邪志国造
武蔵国造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 02:23 UTC 版)
記事に見える武蔵国造の「武蔵」は後世に現れる表記で、乱の当時にはまだ存在していない。これは、乱の記事が『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に記されたためである。のちの武蔵国は无邪志国造と知々夫国造の領域が統合し1つの国になったとされており(ただし異説もある)、7世紀頃までの武蔵国に関しては「无射志(むざし)」と表記されていた記録も見つかっている。 国造を列記した『先代旧事本紀』「国造本紀」にも「武蔵国造」という名での記載はなく、无邪志国造と胸刺国造が記載されている。无邪志と胸刺は完全に同一のもので読みも同じ「むさし」であり、文字表記の違いにすぎないというのが定説であるが、地域で分ける説もある。例えば竹内健は現在の東京都と神奈川県横浜市を含む南部が胸刺(かつての小杵の勢力圏)、秩父地域を除く現在の埼玉県にあたる北部が无邪志(かつての笠原使主の勢力圏)であり、武蔵国が宝亀2年(771年)に東海道に移管される前には東山道に属していたのではなく、北部(旧・无邪志国)が東山道、南部(旧・胸刺国)が東海道と、南北に分かれて別々の道に属していたのだという説を唱えている。しかし小杵と使主とは従兄弟であって分岐した時期はそう古くなく、无邪志国造の初代として挙げられる兄多毛比命と胸刺国造の初代として挙げられる伊狭知直は親子関係とする系図もある。
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