正規寝殿造論とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

正規寝殿造論とは? わかりやすく解説

正規寝殿造論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/11 17:24 UTC 版)

太田静六」の記事における「正規寝殿造論」の解説

家屋雑考ベース寝殿造学び、それを乗り越えて寝殿造研究大きく発展させたのが太田静六である。特に「東三条殿研究」、「堀河殿の考察」、「鳥羽殿考察」については現在も評価は高い。 太田静六平安文化興隆期延喜時代(901-923)、おおよそ醍醐天皇の頃には寝殿造完成しており、これが天暦時代(947-957)から村上天皇の頃に「極盛期」に入ったとし、その好例藤原師輔東一条院とする。東一条院では東西両対に北対、東西両門から西中門までが確認される太田静六はその完成され寝殿造形式を「正規寝殿造」あるいは「整規寝殿造」と呼び寝殿造歴史をその「正規寝殿造」が変形し崩れ去っていく過程として説明する。その「正規寝殿造」とは『宇津保物語』にある次ぎの様な姿である。 寝殿中心として東西に両対、北方に北対を構えて御殿関係の中枢となし、寝殿前方には広い南池を設け池中には大きな中島配するなど、正規寝殿造形式そのまま踏襲する。池は東対の南方にまで入りこみ、そこに東釣殿設ける・・・ その代表は藤原道長第二期土御門殿藤原頼通第二期高陽院である。 そのころは「平安末期多くみられるような対代ないし対代形式は、原則的に未だ用いられなかった」が、最盛期後半になると一部には早くも変形生じたものも見え例え第二期高陽院は東対を欠き東三条殿では西対を欠く。だがそれは、前者藤原頼通独創性後者は西対の位置に泉が湧いたという特殊事情であって正規寝殿造」の存在疑う余地はないとする。 そしてその「正規寝殿造」の変形平安末期から堀河殿(画像510)のような対代対代廊への変形始まりついには対の消滅透渡殿消滅成って行くとする。 太田静六特徴のひとつは「寝殿正面に南池や中島中心とする庭園観賞しようとする日本人特有の気持」などと池の存在を非常に重視する点。 そして「漢民族が好む左右対称形を破ろうとする日本人性格現れ」、また「日本人元来左右対称形を好まないので」和風化がますます進んだ結果、というような言葉説明するところである。 太田静六は、東西の対は東西ではなく南北棟であること、東西中門廊先にあるのは片や泉殿片や釣殿ではないことなどを指摘しはしたが、 川本重雄からは「正規寝殿造」とは11世紀中頃以前文献にみえる寝殿・東対・西対といった言葉に、平安時代後期指図から復原した寝殻・対のイメージ重ね合わせたもの。あまりにも南池や中島重視しすぎると批判され、後に藤田勝也からは基本的には『家屋雑考』の寝殿造イメージのままだと評される

※この「正規寝殿造論」の解説は、「太田静六」の解説の一部です。
「正規寝殿造論」を含む「太田静六」の記事については、「太田静六」の概要を参照ください。

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