正教会とカトリック教会に共通する理解
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「公審判」の記事における「正教会とカトリック教会に共通する理解」の解説
世の終りにはイエス・キリストの約束と復活の保証により、すべての肉身が復活する。 肉身の復活とは天主の全能によって、世の終りに、霊魂が再び元の肉身に合せられることであり、その根拠となる聖書箇所は「墓の中なる人々悉く天主の声を聞く時来らんとす。斯くて善を為しし人は出でて生命に至らんが為に復活し、悪を行いし人は審判を受けんが為に復活せん」(ヨハネ 5:28-29)である。肉身が復活するのは、人の善業と悪業とは霊魂と肉身とで行ったので、肉身も共に審判を受けて終なく賞せられ、或は罰せられるために復活する。肉身の復活の後に公審判があり、その聖書箇所はマタイ24:30-33、マルコ13:26である。公審判の後に、善人は、霊魂、肉身ともに天国に行き、永遠に楽しむのであり、これを終なき生命(いのち)と呼び、その聖書箇所は 「来れ、我父に祝せられたる者よ、世界開闢より汝等のために備えられたる国を得よ」(マタイ25:34)である。公審判の後に、悪人は霊魂、肉身ともに地獄に行き、永遠に苦しむ。これは終なき死と呼ばれ、その聖書箇所は「詛(のろ)われたる者よ、我を離れて、悪魔と其使等との為に備えられたる永遠の火に入れ」(マタイ25:41)である。公審判の行われる目的は、1.天主の智慧と正義とがすべての人に認められ、2.イエス・キリストがすべての被造物の前に光栄を得、3.善人と悪人とはそれに値する名誉叉は恥辱を受けるためである。
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正教会とカトリック教会に共通する理解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/17 17:40 UTC 版)
「私審判」の記事における「正教会とカトリック教会に共通する理解」の解説
死とは、霊魂が肉身を離れることと理解される。人は死んでから、肉身は土となる(創世記3:17 - 19、コヘレトの言葉12:1 - 17)。 霊魂は直ちに神の審判を受ける。これは全ての死者の復活の前に行われる最後の審判、すなわち公審判とは区別される。 聖書の箇所としては、以下が挙げられる(他にも多数ある)。 富める者と貧しきラザロのたとえ(ルカ16:19 - 31) 回心した犯罪者に向けられた十字架上のイエスの言葉:「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43) 「人一度死して、然る後審判あるは、定まれることなり」(ヘブル9:27)。
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