栃木山守也
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栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第27代横綱。本名は中田 守也(なかた もりや)(旧姓:横田)。
注釈
- ^ 栃木山に初めて黒星を付けたのは、後に大関となる千葉ヶ嵜俊治だった。
- ^ 太刀山はこれ以前にも西ノ海嘉治郎に敗れる(1912年1月場所8日目)までの43連勝があり、この西ノ海戦での敗北が無ければ、栃木山に敗れるまで100連勝していたことになる。当時の新聞には「1912年春(1月場所8日目)の西ノ海戦は八百長。太刀山、1909年夏の碇潟戦以来7年ぶりの土」と報じたものもあった。
- ^ 1休は相手力士の休場によるもの。
- ^ 同部屋から大関二人が同時に昇進した例としては1962年7月場所後の栃ノ海晃嘉・栃光正之(ともに春日野部屋)の例がある。奇しくも2人は栃木山の弟子である。ただし、2人の大関昇進は栃木山の没後で、栃錦清隆が師匠となってから。
- ^ 大関2場所はそれぞれ9勝1預・10戦全勝で負け無し(大関時代が無敗での横綱昇進は、後に69連勝を達成する双葉山定次のみ)。
- ^ 1924年5月場所から1925年5月場所までの引退前の3場所の番付で栃木山は張出横綱だったが、国技館再建費用として常ノ花の後援会から多額の寄付があったため、彼を栃木山より優先したものとされる。栃木山に対しては番付上にやや大きめの文字で書き出すことで「別格横綱」の意味合いを与え、取組編成上などでも常ノ花より上位の扱いを受けるなどの配慮も払われた。
- ^ 年下だが兄弟子の常ノ花寛市は後年、この噂について「巡業などで栃木山に対して『ハゲ』と野次が飛ぶと見るからに不機嫌になって、その鬱憤を稽古でぶつけられるのでたまったもんじゃ無かった」と証言している。
- ^ 常ノ花は栃木山より4歳年下(栃木山が早生まれなので学年は5歳違い)で、横綱昇進も引退も栃木山より後の為、栃木山が常ノ花より兄弟子と誤解されがちだが、入門と初土俵は常ノ花の方が1年先輩である為、正しくは常ノ花が栃木山より兄弟子である。
- ^ 65歳で停年と決まっていたため、実施時点で65歳以上になっていた年寄は1961年1月1日をもって退職とすると決まっていた。栃木山はこの時点で存命ならば68歳だったため対象者にされていた。
- ^ 他に平幕時代に一度だけ顔の合った綾浪源鋭に1敗。
- ^ 他に1預1休。1休は対戦相手である朝潮の休場によるもので、現在でいう「不戦勝」である。当時は相手力士が休場すると、その対戦相手も自動的に休場だった。
- ^ ボクシング世界ヘビー級王者だったジーン・タニーだったという説がある。
- ^ 感冒・右肩関節負傷により2日目から途中休場
出典
- ^ a b c d 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p21
- ^ 横山健堂 著『快心録』十一.吾輩の見たる大錦の栃木山,日東堂,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 鳴弦楼主人 著『名人達人決死の大試合』栃木山つひに大剛太刀山を破る,大日本雄弁会,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p39
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年6月号42-43頁
- ^ 「角力雑誌」大正12年 7月号「横綱土俵入の思ひ出」
- ^ a b 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』 p16
- ^ 『相撲史うらおもて その二』p153
- ^ 国分け大相撲
- ^ “◆コラム 悲しい「逆縁」と「コロナ後」 若林哲治の土俵百景:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2020年7月17日閲覧。
- ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p45
- ^ コラム 悲しい「逆縁」と「コロナ後」 若林哲治の土俵百景(3/3ページ) 時事ドットコム 2020.5.28(2020年6月16日閲覧)
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