柳生宗冬
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柳生 宗冬(やぎゅう むねふゆ)は、江戸時代前期の武士、新陰流の剣豪。幼名は主膳、諱は宗冬。通称は内膳正、俊矩[注 1]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』による[1]。柳生家の家譜『玉栄拾遺』では他に“心計”や“柳陰”の号も記している[2]。また講談や立川文庫などでは”又十郎”とも呼ばれており、現代でも創作などで使用されるが、俗説ともいわれる[3]。
- ^ 寛政重修諸家譜による。柳生家の家譜『玉栄拾遺』では元和元年生まれとしている
- ^ 次兄友矩は既に病死
- ^ 『徳川実紀』では「四月三日、柳生十兵衛三巖死して男子なし遺領八千石余を弟内膳宗冬に継がしめられ、三巌の女子を養育すべしと命ぜられ、宗冬の四千石をば収公せらる。これ父但馬守宗矩年頃の勤労を思召し、かく命ぜらるれば、いよいよ怠らず勤仕すべしと仰下さる」とあり[6]。
- ^ 『徳川実紀』では「四月十四日、この日堀田加賀守正盛、柳生内膳宗冬、朽木民部少輔綱、御側・久世大和守広之をはじめ、小姓の輩、御前に召れ剣法を試みしめられる」とあり[7]
- ^ 家綱は『徳川実紀』において、自ら剣術を演じた記事が登場する回数が51回と、歴代の徳川将軍家の中でも飛び抜けて多い[9]
- ^ 『玉栄拾遺』では病名を「隔」(現代でいう胃がんにあたる場合が多い)としている[2]
- ^ 『寛政重修諸家譜』による[1]。その他の老中についても、『玉栄拾遺』では「当時ノ老中残ラ不尋訪」とある[2]。
- ^ 『徳川実紀』慶安4年4月。また2人の演武を家光が賞賛したことを、2人の主君である徳川光友に伝える徳川頼宣の書簡も残っている。
- ^ ただし厳長の父・厳周の門弟の中には、伝わっている口伝として、2人が行ったのは試合ではなく型の披露で、その際生じた事故だったと証言する者や[18]、伝説そのものに否定的な者もいる。
- ^ 庄田とも。宗冬の祖父宗厳の代から柳生家に仕えている譜代の家臣。柳生四天王の一人で庄田心流を開いた。
- ^ a b 寛政重修諸家譜 p.297
- ^ a b c d e f 史料 柳生新陰流〈上巻〉収録『玉栄拾遺(三)』。該当箇所はp.81-86
- ^ 綿谷雪2011 p.201
- ^ a b 徳川実紀 寛永16年2月
- ^ 徳川実紀 正保3年
- ^ a b 徳川実紀 慶安3年4月
- ^ 徳川実紀 慶安4年
- ^ 徳川実紀 明歴2年
- ^ a b c 赤羽根大介1997
- ^ 柳生宗冬(コトバンク、2021年11月29日閲覧)
- ^ 史料 柳生新陰流〈上巻〉収録『玉栄拾遺(三)』。該当箇所はp.87
- ^ 『寛政重修諸家譜』の記述では38歳
- ^ 渡辺誠2012p.201
- ^ 今村嘉雄1994 p.238-240
- ^ 渋谷鉱「13 日本固有の義歯と口腔ケア 1木床義歯」『スタンダード歯科医学史』(第1版第2刷)学建書院、東京都文京区、2011年10月10日、17-180頁。ISBN 978-4-7624-0671-3。
- ^ 長谷川正康「柳生飛騨守宗冬の義歯の疑問点」『日本歯科医史学会会誌』第5巻第4号、日本歯科医史学会、1978年3月、24-29頁、ISSN 0287-2919、NAID 110007155142。
- ^ 綿谷雪2011 p.211
- ^ a b 今村嘉雄1994 p269-270
柳生宗冬(やぎゅう むねふゆ)
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「十 〜忍法魔界転生〜」の記事における「柳生宗冬(やぎゅう むねふゆ)」の解説
宗矩の三男。父宗矩や兄十兵衛にはおよばない。如雲斎に敗れ、尻に「尾」の一字を刻まれるという恥辱を受ける。
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