東京電力への合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 02:37 UTC 版)
1920年に富士製紙から事業を引き継いだ段階での静岡電力の供給実績は、電灯3万1595灯、小口電力供給2,245馬力(約1,674キロワット)、大口電力供給1,770キロワット(うち静岡市営1,200キロワット)であった。これが5年半後、1926年5月での供給実績は、電灯12万134灯、小口電力供給3,907.5馬力(約2,914キロワット)、大口電力供給4,500キロワット(静岡市2,900キロワット・富士製紙芝川工場その他1,600キロワット)に拡大している。 静岡電力が事業を拡大した1920年代、早川電力という電力会社も勢力を拡大していた。同社は1918年6月、山梨県を流れる富士川支流早川の開発を目的に設立。当初は富士製紙の傍系会社であり、同社社長の窪田四郎が社長を兼ねたが、窪田が富士製紙を去ると早川電力もその傘下を離れた。1920年3月、早川電力は浜松市とその周辺に供給区域を持つ日英水電を合併。次いで1922年2月には天竜電力ほか2社を合併して静岡県西部での勢力を拡大した。早川電力はさらに東京進出を狙って設備投資を続けたが、関東大震災発生で行き詰まり、1924年(大正13年)3月、中京地方と北部九州に供給する大手電力会社東邦電力の傘下に入った。そして翌1925年(大正14年)3月、同じく東邦電力傘下にあった群馬電力と合併し、東京電力へと発展した。 東邦電力の勢力が東進するころ、東京を地盤とする大手電力会社東京電灯ではその対策に努めた。その一つが周辺事業者の合併であり、静岡県内では1925年4月に御殿場方面に供給する東洋モスリン電気事業部を吸収、同年10月には沼津方面に供給する富士水電も合併した。これらの統合は東京電力や当時東京進出を狙っていた大同電力・日本電力など同業他社に吸収されて東京進出の足掛かりとされるのを防ぐ意図があったとされる。一方静岡電力については、東京電力の副社長松永安左エ門が地方の会社としては成績が良く東京電灯に取られるわけにはいかないということで東京電力での合併を希望したという。そして1926年(大正15年)6月29日、東京電力は株主総会にて静岡電力の合併を決議した。 東京電力による静岡電力合併の条件は、(1) 存続会社を東京電力として静岡電力は解散する、(2) 静岡電力の資本金1500万円(750万円払込)に対し東京電力は1.4倍の2100万円(1050万円払込)を増資し、新株42万株を静岡電力株主に交付する、(3) 東京電力は静岡電力の役員・従業員その他に対し慰労金として計32万円を支払う、(4) 静岡電力の役員の中から最大4人を東京電力の役員に加える、などであった。1926年10月12日付で逓信省からの合併認可があり、20日に東京電力にて合併報告総会が開かれ合併手続きが完了。静岡電力は合併報告総会当日をもって解散した。 静岡電力を合併した東京電力はその後東京電灯への攻勢を強化し、東京方面の電力市場を巡って激しい需要家争奪戦を展開するが、両社の経営悪化の末に1928年(昭和3年)4月東京電力は東京電灯に合併されて消滅した。その4年後の1932年(昭和7年)10月、芝川の4水力発電所については静岡市に買収され、従来からの送電先であった静岡市営電気事業の直営電源とされている。
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