杜瓊
若くして任安より図讖術(予知)を学んだ。益州牧劉璋に召し出されて従事に任じられる。劉備が益州を支配すると議曹従事となり、劉禅が即位すると諫議大夫に任じられ、そこから左中郎将、大鴻臚、太常と昇進していった。 杜瓊は控えめで口数少なく、世間のことには関わろうとしなかった。蔣琬・費禕は彼の才能を高く評価した。しかし天文を調べて未来を予知するようなことは全くしなかった。譙周が理由を尋ねると、杜瓊「この術は非常に難しく、昼夜通して激しく観察をしなければならない。しかも予言が人に漏れると災いを招いてしまう。だから知らない方がましだ」、譙周「周舒はどういう根拠で『当塗高』を魏と解したのでしょうか」、杜瓊「魏とは城の門のことだから、塗(みち)に当たりて高し、とは魏のこととわかる。昔は官職を『曹』とは呼ばなかったが、漢の時代になって役人を属曹(曹に属す)、その部下を侍曹(曹にはべる)と言うようになった。これが天の意志である」。 延煕十三年(二五〇)、八十余歳で亡くなった。『韓詩章句』を著したが子供たちには伝授せず、図讖術を継承する者はいなくなった。 譙周は杜瓊の言葉を参考にして「先帝陛下の諱の『備』は完結するという意味だし、今上陛下の諱の『禅』は授けるという意味だ。この名付け方は縁起の悪いことだ」と述べて、蜀漢が長く続かないことを予測した。 【参照】周舒 / 蔣琬 / 譙周 / 任安 / 費禕 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 魏 / 蜀(蜀漢) / 蜀郡 / 成都県 / 諫議大夫 / 議曹従事 / 左中郎将 / 従事 / 大鴻臚 / 太常 / 牧 / 韓詩章句 / 当塗高 / 図讖術 |
杜瓊
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杜瓊 | |
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蜀漢 太常 | |
出生 |
生年不詳[1] 益州蜀郡成都県 |
死去 | 延熙13年(250年) |
拼音 | Dù Qióng |
字 | 伯瑜 |
主君 | 劉璋→劉備→劉禅 |
杜 瓊(と けい)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。字は伯瑜。益州蜀郡成都県の出身。
事績
若い頃、任安から図讖を学び、その術を究めた。劉璋の時代に召し出されて従事となった
劉備が益州を平定すると、議曹従事に任じられた。
劉禅の皇帝即位後は諫議大夫に任命された。その後も、左中郎将・大鴻臚・太常と昇進を続けた。
杜瓊は控え目な性格で言葉少なく、門を閉ざして世俗に関わろうとしなかった。蔣琬や費禕らはみな杜瓊の才能を高く評価していた。
延熙13年(250年)、八十余歳で亡くなった。『韓詩章句』を著したが子供たちに教えなかったので、図讖の術を継承する者はいなかった。
脚注
- ^ 160年代
参考文献
- 「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳) ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7
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