村上家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 14:50 UTC 版)
慶長3年(1598年)5月、上杉景勝が豊臣秀吉の命で会津に移封された後、堀秀治が越後の国主として春日山城に入った。このとき、秀治の与力大名として村上頼勝(義明とも)が加賀小松より9万石で入り、名称を村上と改めたのが村上藩の始まりである、とされている。ただ、これに関しては不確かなことが多い。理由としては村上家が2代しか続かず在城期間が短かったこと、江戸幕府の外様大名廃絶政策により取り潰されたため、史料が少なすぎるのが理由である。村上家の記録として存在するのは『徳川実紀』『廃絶録』『東武実録』などであるが、これらはいずれも江戸時代中期や後期にかけて成立した史書であり、さらに徳川方の史料であるから江戸時代前期、さらに取り潰された村上家の記録としては贔屓目に書かれている可能性などもある。この中で最も古いのが『東武実録』であるが、これは初代藩主を村上義明と記している。だが、原文では頼勝、忠勝の名はあるが義明の名は存在しないため、同書の誤記の可能性も指摘されている。 村上家の出自であるが、武田信玄に追われた北信濃の戦国大名村上義清の子で国清の弟とする説があり、12歳の時に加賀に赴いて丹羽長秀に仕えたとする。ただし国清の実弟ではなく義弟であるとされ、頼勝の実父は戸田武蔵守、母が義清の娘とする。新井白石は別説を唱え、家紋が丸に上の字で頼勝と同じである伊予の村上二郎の後胤と主張しているが、その経過は全く不明である。 頼勝は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して越後に在国し、西軍に与した景勝が煽動して起こした越後一揆を鎮圧した戦功により、戦後、徳川家康から所領を安堵された。頼勝は村上城や城下町の拡張工事を行ない、領内の検地も実施して藩の支配体制を固めた。しかし元和4年(1618年)4月、頼勝の家督を継いだ養嗣子忠勝が家中騒動を理由に改易され、丹波国篠山の松平康重に預けられた。
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