村上の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/28 08:07 UTC 版)
村上は小菅刑務所に服役中、肺結核を重くし、さらに腸結核を患い、中野の江古田療養所に移送された。中央委員岸勝の妻が毎日のように見舞いにいった。しかし1940年、村上多喜雄は31歳で死んだ。死に水をとったのも岸の妻だった。 村上の死の様子を、諏訪中学の2年先輩である山田国広はこう書いている。 「愛する後輩をいとおしみながら病床にとびつけた時は、もう息を引きとっていた。しかし目は大きく見開いて天井の一角を睨んでいた。死んでも死ねない恨みを訴えているような死相であった」
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