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月岡芳年・歌川国虎とは? わかりやすく解説

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月岡芳年・歌川国虎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/27 04:59 UTC 版)

甲府道祖神祭礼」の記事における「月岡芳年・歌川国虎」の解説

月岡芳年は「一魁斎芳年」の筆名で「太功記 佐久間盛政 羽柴秀吉を狙ふ」を制作している。慶応年間の作。福富太郎コレクション資料室所蔵豊臣秀吉羽柴秀吉)の生涯題材とした作品で、天正11年1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいで、秀吉柴田勝家の甥にあたる佐久間盛政対峙する場面描いている。寸法は縦195.0センチメートル、横900.0センチメートル若尾謹之助甲州年中行事によれば柳町四丁目飾られたという。1930年昭和5年)には内田實が『廣重』において記録している。幕絵は一時所在不明となり、1976年昭和51年)に再発見される。 甲府古老聞き取り調査によれば、他に子守嫌になった秀吉逃げ出す様子描いた図があったという。 月岡芳年1839年天保10年) - 1892年明治25年))は江戸新橋生まれ歌川国芳入門する安政元年1860年)頃から盛んに活動し、特に怪奇的な作品多く手がけた。1872年明治5年)頃には一時精神病むが、明治後も『錦絵新聞』の挿絵などで活躍した芳年慶応年間道祖神幕絵制作目的甲斐訪れているほか、明治期にも来訪している。山梨県内作例として、南アルプス市新津家に伝来する新津家伝肖像画含まれる新津当主描いた新津清右衛門正光像」などの肉筆画がある。 1938年昭和13年)・1953年昭和28年)に開催され輔仁倶楽部主催峡中浮世絵展覧会」では屏風絵襖絵など、多く芳年作品出展されおりいる。この展覧会開催され年代は、出展作品に象と見立文殊菩薩描いた金屏風干支の「辛未」が記されていることから1871年明治4年にあたり芳年この年山梨訪れていたと考えられている。

※この「月岡芳年・歌川国虎」の解説は、「甲府道祖神祭礼」の解説の一部です。
「月岡芳年・歌川国虎」を含む「甲府道祖神祭礼」の記事については、「甲府道祖神祭礼」の概要を参照ください。

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