書記長就任
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1989年、クレンツは中央選挙管理委員会委員長として地方選挙の不正の責任者となった。同年6月に中華人民共和国で起きた虐殺事件である天安門事件については「秩序を維持するために何か行われたようだ」と述べたにとどめた。 しかし1980年代半ばにソビエト連邦の指導者の地位に就いたミハイル・ゴルバチョフの指導の下始まった、ソビエト連邦の民主化(ペレストロイカ)の影響は、他の東ヨーロッパ諸国同様、東ドイツも避けて通れなかった。いち早く改革を進めていたハンガリー人民共和国が1989年5月2日にオーストリアとの国境線の鉄条網の撤去に着手し、鉄のカーテンが綻ぶと、多く東ドイツ市民は夏の休暇を利用してハンガリーへと出国した。治安・青年担当の党書記でもあったクレンツは、8月にホーネッカーに出国者数を報告し、党の政治局で大量出国問題を討議するよう進言したが、ホーネッカーはクレンツの進言に耳を貸さず、クレンツに長期休暇を命じて10月まで政権中枢から遠ざけた。その直後の8月19日、ハンガリーでは指導部の改革派と市民グループの手によって汎ヨーロッパ・ピクニックが起き、東ドイツ市民がオーストリア経由で西ドイツへ亡命するようになった。 国民の大量脱出と国内の民主化運動が頻発したが、ホーネッカーは強硬手段を取って弾圧する方針であった。しかし、10月7日の建国40周年のために東ドイツを訪れたゴルバチョフは明らかに改革を行おうとしないホーネッカーに対して不満げな態度を取り、帰国時にはクレンツら党幹部に対して「行動したまえ」とホーネッカーを退陣させるよう示唆した。 これを受けたクレンツやギュンター・シャボフスキー(SED政治局員・ベルリン地区党委員会第一書記)ら党幹部はソ連指導部とも連絡を取りながらホーネッカーの失脚工作を進め、1989年10月17日の政治局会議でホーネッカーの書記長解任動議を可決させた。翌日付で正式に辞任したホーネッカーの後を継いで、クレンツが社会主義統一党書記長に就任した。10月24日には人民議会によって正式に国家元首である国家評議会議長に選出され、国防評議会議長も兼任した。思うところがあったのか、妻子を連れて東ベルリン郊外にある政治局員専用の住宅地区(ヴァルトジードルング(ドイツ語版))から引っ越した。
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書記長就任
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「ユーリ・アンドロポフ」の記事における「書記長就任」の解説
1982年11月10日、ブレジネフが死去した。アンドロポフは葬儀委員長に就任し、大勢を決した。共産党の官僚組織を背景とするチェルネンコに対し、アンドロポフの背景には、長く議長を務めたKGBと、政治局員、ウスチノフを始めとする軍があった。後継書記長を決める政治局会議ではウスチノフがアンドロポフを推薦したとされる。一方、正式の会議の前には根回しが済んでおり、自身の不利を悟ったチェルネンコは「第二書記」としての処遇を受けることと引き換えに、自らアンドロポフを推薦したとの説もある。11月12日、ソ連共産党中央委員会書記長に就任。アンドロポフの書記長就任は、元KGB議長という肩書とハンガリー動乱でのアンドロポフの役割に鑑み、西側諸国からは警戒感をもって受け止められた。1983年6月からは憲法上の国家元首である最高会議幹部会議長も兼任、更には、国防会議議長も兼ねた。 チェルネンコらはアンドロポフの書記長就任に当たり、前任のブレジネフの基本路線を踏襲することを求めた。これに対しアンドロポフは、基本的にはブレジネフ路線を継承しつつも直ちに軌道修正を図った。アンドロポフは、前述の通り、政敵のチェルネンコを第二書記として偶し、彼と政治局の職務を分担した。アンドロポフは政治局の活動を監督し、国防・内政・外交・対外貿易を担った。一方でチェルネンコは、KGB・内務省・政党機関・イデオロギー・プロパガンダ・文化・科学・高等教育などと多岐に渡る分野を所掌することとなった。 アンドロポフはまた、若い世代の改革派を多用した。同郷で若手の党活動家だったミハイル・ゴルバチョフを登用しペレストロイカへの道筋をつけた。政治局員には、ヘイダル・アリエフ、ヴィタリー・ウォロトニコフ、書記にはニコライ・ルイシコフとエゴール・リガチョフを登用した。自身の古巣のKGB議長にはヴィクトル・チェブリコフを任命した。 しかし、この段階でアンドロポフ政権の権力基盤は、人事異動が主として現業部門の大臣・次官あるいは党中央委部長等のいわゆる中堅幹部クラスが中心であることに加え、アンドロポフ自身の健康状態が必ずしも良好でないこともあり、完全に確立しているとは言える状況に無かった。
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書記長就任
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「ミハイル・ゴルバチョフ」の記事における「書記長就任」の解説
1985年3月、チェルネンコの死去を受けて党書記長に就任する(54歳)。チェルネンコが死去した3月10日、夜遅くまでクレムリンで仕事をしていたゴルバチョフは、帰宅後に第二書記として医師から電話で報告を受ける。ゴルバチョフは他の幹部へも連絡し、後継者選出のための拡大政治局会議が急遽招集された。書記長の座を巡って、ゴルバチョフの有力なライバルとしては、重工業・軍事工業担当書記のグリゴリー・ロマノフや、モスクワ党第一書記のヴィクトル・グリシンがいた。他にも野心のある人物が数名いると考えられ、ウクライナ党第一書記のウラジーミル・シチェルビツキーや、高齢だがニコライ・チーホノフ首相もその中に含まれた。外相・第一副首相のアンドレイ・グロムイコもその中の1人と思われたが、高齢となったグロムイコは書記長の座よりも形式上の国家元首ポストである最高会議幹部会議長の職に意欲を燃やしていた。ゴルバチョフはグロムイコへ接触し、取引の結果、グロムイコの推薦を得るに至る。推薦演説をしたグロムイコは「諸君、この人物は笑顔は素晴らしいが、鉄の歯を持っている」と語った。 高齢の指導者が続いたあとでもあり、若い指導者への期待の大きさは『プラウダ』紙でのゴルバチョフの写真が、死去したチェルネンコより大きかったことにも表れていた。 ゴルバチョフは書記長就任後、「鉄の歯」に相応しい人事刷新を矢継ぎ早に行う。自身の後任の「第二書記」にはエゴール・リガチョフを当て、政治局員兼イデオロギー担当書記に加え、「第二書記」に必須の最高会議連邦会議外交委員長に選出した。対抗していたグリシンとロマノフ、老齢のチーホノフ首相を解任し、共産党中央委員会書記のニコライ・ルイシコフ(経済担当)を後任に充てた。また、グロムイコを最高会議幹部会議長(国家元首)にし、新たな外相には、グルジア党第一書記だったエドゥアルド・シェワルナゼを抜擢して内外を驚かせた。 また経済担当の閣僚では、1985年10月にゴスプラン(国家計画委員会)議長ニコライ・バイバコフを解任し、後任にニコライ・タルイジンを任命した。軍部や地方の共産党幹部も大幅に入れ替えられて若返った。
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