しゅんじゅう‐じだい〔シユンジウ‐〕【春秋時代】
春秋時代
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春秋時代(しゅんじゅうじだい)(簡体字: 春秋时代; 繁体字: 春秋時代; 拼音: Chūnqiū shídài)は、中国における時代区分の一つ。周の平王が王に即位した紀元前770年から現在の山西省一帯を占めていた大国「晋」が韓・魏・趙の三国に分裂した紀元前453年までを指す[1]。この春秋時代の呼称は、周代に成立した儒家経典の一つである歴史書『春秋』から取られている[1]。
注釈
- ^ 杞憂の杞とは別
出典
- ^ a b c 伊藤 2000, p. 286.
- ^ 伊藤 2000, pp. 293–294.
- ^ 伊藤 2000, p. 294.
- ^ 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』中公新書 2016年 ISBN 978-4-12-102396-4 p.146
- ^ 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.166-169
- ^ 伊藤 2000, p. 301.
- ^ 伊藤 2000, p. 302.
- ^ 伊藤 2000, pp. 303–304.
- ^ a b 伊藤 2000, p. 305.
- ^ a b 伊藤 2000, p. 306.
- ^ 伊藤 2000, p. 310.
- ^ 伊藤 2000, p. 311.
- ^ 伊藤 2000, p. 315.
- ^ 伊藤 2000, p. 319.
- ^ 伊藤 2000, p. 322.
- ^ 伊藤 2000, p. 32.
- ^ 伊藤 2000, p. 335.
- ^ 伊藤 2000, p. 342.
- ^ 伊藤 2000, p. 343-358.
- ^ 伊藤 2000, pp. 326–327.
- ^ 伊藤 2000, pp. 329–330.
- ^ 伊藤 2000, p. 331.
- ^ a b 貝塚 2000, p. 390.
- ^ 貝塚 2000, p. 391.
春秋時代
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驥(き) 春秋時代の名馬。孔子が「節度ある風格」といって誉めたと『論語』にある。ただし、驥の字義は「駿馬、千里の馬」であり、論語での文脈上も特定の馬名ではない。
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春秋時代
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春秋時代の諸侯間戦争は兵車によるものであった。戦車と呼ぶこともあるが、現代戦車(Tank)との混同を避けるため、以降兵車で統一する。兵車戦は春秋時代の主な戦い方で、趙の武霊王が紀元前307年に胡服騎射を取り入れるまで、騎兵が用いられることは少なかったとされる。また兵車1台あたり、周では75人、楚では150人が付き従ったとされる。また、兵車のみでは戦力にならないため、戈などの近接戦闘具が併用された。 また、春秋時代には弩が発明されたとされる。弩に関する最初の文献的証拠は『孫子』であり、また墨子によると春秋時代に開発されたのは弩や床弩といった、弓矢の発展形の類であったとされる。また紀元前4世紀頃には、弩の機械化も行われていたとされる。また弩兵の戦略的運用に関する記述で、実在性が最も確かな例は馬陵の戦い(紀元前342年)についての記述である。 また、中国の現存最古の兵法書である孫子の兵法が生まれた。これは過去の戦争の謀略を一般的な兵法として反映させたものであり、初歩的な戦争の本質を突いたもので、鬼神や天命観に囚われた従来の兵法を大きく変えたとされる。戦国時代やそれ以後、孫子の兵法の流れをくむものとして、呉子の兵法・司馬法・孫臏の兵法・尉繚子・六韜などが生まれた。 また、諸子百家の様々な思想も兵法に大きく影響を与えた。春秋時代には泓水の戦い(宋襄の仁)のように、戦場でも儀礼を重んじる傾向があったが、後述の戦国時代にはこの傾向が薄れる、または完全に消失することとなる。
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春秋時代
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戎は平王の洛邑遷都の際に平王を襲ったが、秦の襄公によって妨害された。これ以降、秦は諸侯のひとつとなり、岐山以西に封じられた。 平王5年(前766年)、秦の襄公が戎を討伐したが、岐山の麓で薨去した。 平王21年(前750年)、秦の文公が戎を討伐し、戎を敗走させた。 平王50年(前721年)春、魯の隠公は戎と潜(魯の地)で会合し、8月に隠公と戎は唐(魯の地)で盟を結んだ。 桓王4年(前716年)冬、戎は凡伯を楚丘で遊撃し、連れ帰った。 桓王6年(前714年)冬、北戎は鄭に侵攻し、鄭の荘公はこれを防いで勝利した。 桓王10年(前710年)9月、魯の桓公と戎は唐で盟を結んだ。 桓王14年(前706年)5月、北戎が斉に攻めてきた。6月、鄭は太子の忽(こつ)を派遣して斉を救援させ、北戎を撃破し、その2帥(大良,少良)を捕えた。 恵王元年(前676年)夏、魯の荘公は戎を済西まで追撃した。 恵王3年(前674年)冬、斉は戎を討伐した。 恵王5年(前672年)、晋の献公は驪戎を討伐して勝利し、驪姫,驪姫の弟を得て、ともにこれを寵愛する。 恵王7年(前670年)冬、戎は曹に侵攻した。 恵王9年(前668年)春、魯の荘公は戎を討伐した。 恵王14年(前663年)、山戎が燕を攻撃してきたので、燕は斉に急を告げる。斉の桓公は山戎を討伐して燕を救い、ついでに孤竹も討伐した。 恵王17年(前660年)春、虢公は犬戎を渭汭(渭水の北)で破る。 襄王3年(前649年)、叔帯は戎翟と謀って襄王を攻撃した。襄王は叔帯を誅殺しようとしたが、叔帯は斉に逃げた。斉の桓公は管仲に周と戎を和解させ、隰朋に晋と戎を和解させた。襄王12年(前640年)、叔帯は周に復帰した。 襄王4年(前650年)夏、斉の桓公と許男は北戎を討伐した。 襄王16年(前636年)、襄王が翟后を退けたため、翟后は怒り、恵后の子の叔帯を立てようと考え、恵后と翟后,叔帯は内応し、戎,翟を迎え入れて襄王を放逐し、叔帯を天子に即位させた。襄王は鄭に出奔し、鄭は汜に住まわせた。 襄王39年(前627年)4月、晋は姜戎とともに秦軍を殽にて破る。 襄王43年(前623年)、秦は由余の謀を用いて戎王を征伐し、その12国を加え、遂に西戎に覇を唱えた。 頃王元年(前619年)冬、魯の公子遂は雒戎と会合し、暴にて盟を結ぶ。 定王元年(前606年)春、楚の荘王は陸渾の戎を討伐し、洛邑に至る。 定王17年(前590年)秋、周軍は茅戎に敗績した。 霊王3年(前569年)、無終子の嘉父が孟楽を晋に赴かせ、魏荘子(魏絳)は虎豹の皮を納めて諸戎に和を請うた。晋侯は魏絳に諸戎と盟を結ばせる。 景王19年(前526年)春、楚の平王は戎蛮子を招き寄せてこれを殺す。 景王20年(前525年)8月、荀呉が率いる晋軍は陸渾の戎を滅ぼす。 敬王29年(前491年)、晋は戎蛮子の赤帰を楚にて捕える。 貞王8年(前461年)、秦の厲共公は大茘を滅ぼし、その地を取る。趙は代戎を滅ぼし、韓と魏は伊戎,洛戎,陰戎を滅ぼした。その残党は逃走し、西の汧,隴を越えた。これより中国では戎寇がなくなり、ただ義渠種だけが残った。 貞王25年(前444年)、秦は義渠を征伐し、その王を捕える。
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春秋時代(紀元前771年 - 前403年)
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「中国の青銅器」の記事における「春秋時代(紀元前771年 - 前403年)」の解説
周の13代平王は洛陽に遷都するが、もはや王には天子としての権威がなく、中国は諸侯がそれぞれに治める時代となった。この時代には青銅器も各諸侯国で作られることになり、器に天子と諸侯の区別がなくなって、所持する器の種類、組み合わせ、数などが特定の身分を表示することもなくなった。青銅器は二十数か国で作られているが、技術水準は地域によってばらつきがあり、一般に中原と山東方面で作られた器が水準が高いものとなっている。長江下流の呉越文化においては、西周時代の銅器の器形や文様を写した模倣作も作られている。文様は全体に形式化し、蟠螭文・蟠龍文のような龍に由来するデザイン性の強い文様が盛行する。龍文の盛行は、周王室の権威が失墜したことにより、龍が中華民族共通の象徴とみなされたという思想的背景もある。龍は神仙の乗る獣として、道家思想とも深い関わりがある。器種は豆が増加し、水器である鑑などの大型器が作られるようになった。銘文は短文のものが多く、鳥書・虫書などの装飾的字体を用いたものがある。後期には以下に述べるようないくつかの新傾向がみられる。まず、従来の礼器にはなかった、全く新しい形態の器が登場した。球体を上下に二分割してそれぞれを身と蓋にしたような形態の敦はその例である。また、器の大型化と装飾過多の傾向が強まり、金銀象嵌などの高度な技法も使用されるようになった。鋳造のための原型製作には従来の土型に加えて蝋型を用いるようになっている。春秋時代後期の青銅器には、複雑な立体的装飾をまったく継ぎ目なしに鋳造しているものがあり、これは蝋型を用いなければ技術的に不可能であるとみられる。複雑な文様を効率的に表すために、鋳型製作にスタンプ押捺を利用するものも出てきた。
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春秋時代
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(紀元前770年 - 紀元前476年) 紀元前770年 平王即位。(+紀元前720年) 紀元前770年 各諸侯が国を立てる。 紀元前767年 鄭の武公が東虢を滅ぼす。 紀元前722年 魯の隠公元年。この年より春秋の記述が始まる。 紀元前719年 桓王即位。(+紀元前697年) 紀元前717年 甲子年 紀元前696年 荘王即位。(+紀元前682年) 紀元前685年 斉の桓公が管仲を登用する。 紀元前681年 僖王即位。(+紀元前677年) 紀元前679年 桓公が覇者となる。 紀元前676年 恵王即位。(+紀元前652年) 紀元前661年 晋が魏・霍・耿を滅ぼす。 紀元前657年 甲子年 紀元前655年 晋の献公が太子の申生(中国語版)を殺す。公子重耳は狄へ逃げる。晋が虞を滅ぼす。 紀元前651年 襄王即位。(+紀元前619年) 紀元前636年 重耳が晋の文公となる。 紀元前632年 晋と楚が城濮で戦い、晋が勝つ。文公は覇者となる。 紀元前623年 楚が江を滅ぼす。 紀元前618年 頃王即位。(+紀元前613年) 紀元前612年 匡王即位。(+紀元前607年) 紀元前606年 定王即位。(+紀元前586年) 紀元前597年 甲子年 紀元前585年 簡王即位。(+紀元前571年) 紀元前571年 霊王即位。(+紀元前545年) 紀元前557年 斉が萊夷を滅ぼす。 紀元前551年 孔子誕生(+紀元前479年) 紀元前544年 景王即位。(+紀元前520年) 紀元前537年 甲子年 紀元前536年 鄭の宰相子産が成文法を作る。 紀元前520年 悼王即位。 紀元前519年 敬王即位。(+紀元前477年) 紀元前515年 呉王闔閭即位。 紀元前512年 孫武(*紀元前535年)投效闔閭。呉軍が楚へ侵攻する。 紀元前506年 呉軍が楚の首都を陥落させる。 紀元前505年 越が呉に侵攻する。曾参誕生(+紀元前436年)。 紀元前500年 斉の晏嬰死去。 紀元前494年 呉王夫差が越王勾践を会稽に追い詰める。 紀元前483年 子思誕生。(+紀元前402年 中庸の著者)。顔回死去。(*紀元前514年?) 紀元前481年 孔子の春秋はこの年で終わる。「獲麟」 紀元前480年 墨子死去。(*紀元前390年?) 紀元前480年 子路死去(*紀元前542年) 紀元前477年 甲子年 紀元前476年 晋が魏・韓・趙に分裂。春秋時代終わる。
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春秋時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 04:21 UTC 版)
詳細は「春秋時代」を参照 春秋時代の名の由来は、孔子が編纂した歴史書《春秋》に因む。 春秋の記述の始まりは、周平王五十年(紀元前722年)である。周敬王四十三年(紀元前477年)或いは四十四年(紀元前476年)に記述は終わる。然し、歴史学者らは春秋時代の終わりは晋の智氏の趙氏・魏氏・韓氏による滅亡(紀元前453年)や、三家分晋(紀元前403年)としている。原因是即使到三家分晋,除秦・楚・斉等國外,還有其他大小王國。 春秋時代には周王は政治の実権は握っていなかったが、依然として精神面の中心であり、諸侯は王に次ぐ2番目の地位たる覇者となろうとしていた。
※この「春秋時代」の解説は、「東周」の解説の一部です。
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