早期のキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 11:10 UTC 版)
「マルクス・リウィウス・ドルスス (護民官)」の記事における「早期のキャリア」の解説
トリブヌス・ミリトゥムに就任していたことが碑石から判明しており、紀元前105年前後と考えられている。続いて碑石からは、セルウィウス・トゥッリウスによって定められた、握取行為を経て得られた手中物に関する裁判での10人の裁判官の一人となっていたことが分かるが、これは紀元前104年頃ではないかと考えられている。 紀元前102年頃、クァエストルに就任した。プロウィンキア(職能範囲)の小アシアへ派遣されたが、あえて簡素なものを身につけていたという。紀元前94年頃にアエディリスに選出されたと考えられ、派手な祝祭を行って民衆を楽しませたというが、同僚のレンミウスの提案に対しては冷淡に、「我々の共和国が貴官と何か関係があるのか?」と応えたという。 彼が幼少の小カト兄妹を預かっていたときのエピソードを、プルタルコスが書き残している。それによると、彼はその雄弁と思慮深さから政界でもリーダー的存在だったといい、マルシ人(英語版)のリーダー、クィントゥス・ポッパエディウス・シロ(英語版)とも交友関係があり、同盟市戦争前にシロを自分の家で数日間世話していたことがあるという。このようなホスピティウム(互助関係)は王政ローマ時代からの伝統であり、ローマ人と他の民族のエリート同士の間で結ばれ、例えばティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス (紀元前235年の執政官)とマルシ人との間に互助関係があったことも、そのことを示す青銅版の発見によって判明している。
※この「早期のキャリア」の解説は、「マルクス・リウィウス・ドルスス (護民官)」の解説の一部です。
「早期のキャリア」を含む「マルクス・リウィウス・ドルスス (護民官)」の記事については、「マルクス・リウィウス・ドルスス (護民官)」の概要を参照ください。
- 早期のキャリアのページへのリンク