日野菜の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 01:44 UTC 版)
日野菜はその昔、室町時代、1470年代に当地の領主であった蒲生貞秀が、自身の居城である音羽城の付近の爺父渓(現在の日野町鎌掛)の観音堂に参詣した際、当地の山林で自生していた野菜を発見し、その菜を漬物にしたところ、色、味のいずれも、大変風流で雅なものであった。そこで観音堂の僧に命じて菜が野生していた場所を開墾し、栽培させた。その後、それを京の公家、飛鳥井雅親に贈り、さらに、時の天皇、後柏原帝に献上されその時、その漬物の美味しさをお喜びになり、その公家を前に、帝が次の和歌がお贈りになられたという所にまで、歴史は遡る。 『近江なる ひものの里の さくら漬 これぞ小春の しるしなるらん』 この和歌が読まれた後に、この菜を日野菜とよび、漬物を「さくら漬」と呼ぶようになったとされている。また、この時以降、蒲生氏が京へ上洛する際は、必ず、「さくら漬」を持参し献上していたという。 江戸時代に入り、近江国が彦根藩井伊家の治める地域となると、その独特の風味が藩主の好みに合ったために御殿野菜として門外不出になったという(ただし、日野は彦根藩の領地ではなく、仁正寺藩市橋家領や水口藩加藤家領、幕府直轄領がほとんどである。)。 その後、時代はさらに下り、明治から大正の頃にかけて、吉村源佐衛門、吉村源兵衛という商人の親子がまず、日野菜の栽培について研究した上で、種子の改良を加えた。更に源兵衛の息子、正治郎が、風媒、虫媒による変種をさける工夫を行ったうえで共同栽培地を選定し、乱売の発生による品質の低下を避け、地域住民に良質の種子を販売した結果、今ある、根が直径が五百円玉と同等のサイズ、長さが約40cm程度という細長く、上部が紅紫色で下の部分の白色であり、葉は濃い紅紫色をした日野菜に改良したといわれている。
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