日本古代音楽史の中での位置づけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/15 15:18 UTC 版)
「板持鎌束」の記事における「日本古代音楽史の中での位置づけ」の解説
後世において、孝謙朝・称徳朝にて鎌束は弟子の清瀬宮経(または宮継)に笛を伝えたとされ、人々が大戸清上・和邇部大田麻呂ら弘仁から承和年間に雅楽を大きく発展させた楽人たちの笛の出発点を板持鎌束・清瀬宮継と認識していた様子が窺われる。実際に鎌束が笛を習得していたかどうかは明らかでないが、音楽との関わりが渤海からの高内弓らを伴なっての帰国と関係すると考えることができる。また、渤海から音声を学んだ高内弓を連れ帰ったことが、外国からの音楽の導入の重要な画期として認識され、大戸清上に繋がるものとして位置づけられたとも考えられる。
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