日本サッカー界の永久欠番
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:53 UTC 版)
「永久欠番」の記事における「日本サッカー界の永久欠番」の解説
日本のプロサッカーリーグ・Jリーグでは、1997年の固定背番号制度発足に伴い、「選手が着用する背番号は連番とし、欠番を作らないように」という通達が出ていたが、サポーターとしての欠番や、移籍選手の背番号の空き番措置に対して各クラブチームの意思が強くなったために、2004年、原則として50番までは連番でなくてもよいと改正された。この改正により、選手個人としての永久欠番が認められるようになった。 チーム所在地順。 ザスパクサツ群馬 31 - 奥野僚右 2005年選手兼任の初代監督としてチームをJリーグ昇格に導いた功績により、2005年に彼が付けていた31番を永久欠番に制定。 横浜F・マリノス 3 - 松田直樹 2011年8月12日2010年まで在籍し、2011年はJFL・松本山雅FCに在籍したが、同年8月2日の練習中に急性心筋梗塞により倒れ同月4日に急逝。同月12日にJ1初の永久欠番に指定。F・マリノスはその理由について「(松田直樹選手の)横浜F・マリノス、日本代表、そして日本サッカー界への多大なる貢献への敬意と謝意、さらには松田直樹という偉大な選手への心からの追悼の証として、横浜F・マリノス在籍時に使用していた『3』を永久欠番とすることを決定した」と説明している。なお2011年シーズン当初から3番は空き番号だった。 FC岐阜 13 - 桐山周也 2011年ジュニアユースに所属していた選手であったが、2010年に遠征中に立ち寄った海水浴場で水難事故に遭い急逝。事故再発防止を誓う意味を込め、すべてのチームカテゴリーにおいて13を永久欠番とした。 ガイナーレ鳥取 5 - 不明 2001年JFL加盟当初から永久欠番に指定しているが指定理由は公表されていない。これは(ガイナーレの)前身のクラブで現役中に亡くなった選手の着けていた番号であると思われる(選手名は不明)。 ファミリーチームのSC鳥取ドリームスでも、同様に欠番だったが、2015年からこの番号をつける選手が登場している。 サガン鳥栖 17 - 坂田道孝 2005年1月30日Jリーグ初の永久欠番。当時、佐賀大学教授で佐賀県サッカー協会理事長。1994年、静岡県浜松市にあったPJMフューチャーズを佐賀県鳥栖市に誘致し、 鳥栖フューチャーズを発足させた。クラブチーム中興の祖であり、経営難による鳥栖フューチャーズ消滅後も、再設立活動に尽力し、チームを復活させた鳥栖最大の功労者。チームの再興を見届け、2000年1月7日逝去(命日1月7日にちなみ意志を受け継ぐという意味で17番を永久欠番に制定)。 また、当時J2のベンチ登録選手が16人(2010年より18人に拡大)であることからサポーターをそれに次ぐ「17番目の選手」としてサポーターズナンバーも兼ねている。
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